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「人を裁いていいのか」裁判員 悩む宗教界

 2009年1月11日付読売新聞朝刊トップ記事「裁判員 悩む宗教界」から。

記事のまとめ

 人を裁くことは、犯罪者も含めた人々の「心の救済」を目指す宗教の立場と両立するか。国民が参加して有罪・無罪などを判断する裁判員制度が5月に始まるのを前に、宗教界で議論が起きている。

 これは記事の冒頭。そして各宗派が以下のような見解を述べている。

浄土真宗本願寺派
人間は誰でも罪を犯す可能性を持つ弱い存在であり、そんな自分が他人を裁いていいのかと抵抗のある人もいる。引き続き検討していく。
浄土真宗大谷派
制度そのものに対する意見表明は考えていないとする一方、裁判員に選ばれたら、信州門徒として死刑という判断はしないという態度が大切。
禅宗曹洞宗
顧問弁護士から、宗教上の信念による辞退は認められるだろうと言われている。しかし宗教者としての意見をしっかり述べることが大切という考えもある。
キリスト教カトリック
私的な裁きは認められないが、法治国家の正式な裁判制度まで否定はしていない。ただ、被告の人権への配慮や国民の充分な理解が必要だと思う。
キリスト教プロテスタント
様々な考え方があり得るが、非常に重い問題なので、すぐには答えが出ない。
神道神社本庁
国民の義務として、裁判員に選ばれたら原則参加する。

浄土真宗について

 書いてある通り、真宗は人は誰でも誤るし、悪人の自覚こそ救われるという考え(悪人正機)だ。犯罪者に対してどのように裁くかはよく考えなければならない。それに裁判員の門徒が死刑を下した場合、その被告が自らを悪人と省みることなく死刑になるようなことがあったら、それは裁判員の門徒の瑕疵とならないか。真宗大谷派の言う通り、門徒は死刑を下せないのではないか。

キリスト教について

 新聞記事によると新約聖書に「人を裁いてはならない」というイエスの言葉があるそうなので、調べてみたらマタイによる福音書であった。

裁いてはいけない。裁かれないためだ。あなた方が裁くその裁きで,あなた方が裁かれることになるからだ。(マタイによる福音書7:1-7:2)

[三省堂 Web Dictionary] Web辞書で読む世界の名作による

 確かにセム系一神教では神が裁くのであり、人が裁くのではない。しかし、キリスト教では地上の権威と死後の権威は別であり、神の権威は地上の権威に委託されている。王権神授説なんかそれを如実に示している。だから地上の権威は地上の権威でやるということで、アメリカやイギリス、フランスでは一般の人が裁判に参加する参審制度がとられているのだろう。海外の裁判制度はよくしらないけど。

神道について

 神道の言葉はまさに予想通りだった。日本人が無宗教を自称する理由に示す通り、憲法義解により「個人の内部における信教の自由は完全で、一つとして制限を受けることはないが、布教や礼拝という外部になると、法律や規則の制限を受けるのは当然である」という見解があり、この思想は現代の日本にも受け継がれている。明治以来、国の保護下にあった神道はその見解に従うことになる。裁きの方法は別として「国民の義務として、裁判員に選ばれたら原則参加する」という考えは当然である。

レヴィ=ストロースが生きていた!

 あと表題とは関係ないのだけれど、レヴィ=ストロースが生きていたことに驚いた(書評欄)。レヴィ=ストロースは現代思想、文化人類学における偉人である。私は橋爪大三郎「はじめての構造主義」(講談社現代新書)くらいしか読んだことがなく、親族関係の話とか神話の研究とかしか分からないのだが、問題を分析する切り口が実に天才的であった。

 読んで「あー、文学部進んで文化人類学か民俗学学びたかったな」と思わせるような内容だった。戦前から活躍している人だったのでてっきり亡くなっているものだと思っていた。昨年、2008年11月28日に100歳の誕生日を迎えたそうだ。失礼しました。

  1. 2009/01/11(日) 23:26:20|
  2. 宗教・哲学・心理学
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