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時流を読むことに長けた対馬の宗家 - 有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」4

 対馬の項も面白い。国境の島らしく、宗主は時流を読む術を心得ている。

 歴史的な出来事は以下の3つが紹介されている。

  1. 元寇(文永の役、弘安の役)
  2. 秀吉の朝鮮出兵(文禄の役、慶長の役)
  3. 安政6年(1859)英国海軍アクテオン号への食料と薪水の補給と文久元年(1861)の領地換えの願い出

 有吉佐和子は特に2番目の朝鮮出兵にページを割いている。これも要約して紹介しよう。

 宗家を継いだ義智(よしとし)は天平17年大坂城で秀吉に謁見する。帰島した義智はソウルに乗り込み朝鮮王に会見し、翌年朝鮮使節を伴い京都聚楽第に参じた。その功労により秀吉からは一字を与えられ宗吉智と名乗るようになる。

 秀吉が朝鮮攻略を決し(文禄の役)、小西行長に先鋒隊長を命じて間もなく、宗吉智は小西行長の娘と結婚する。吉智は24歳であった。日本軍は朝鮮半島で暴れまわるが、明は平壌で小西行長と和平交渉を始める。しかし、冬が訪れ兵糧の欠乏により日本軍の敗戦が濃厚になる。その頃、秀吉は吉野に花見に出かけたり、伏見に城を築き始めたりと戦争中なのも忘れて浪費している。

 慶長元年、小西行長が明の使節を連れ秀吉に謁見した際、小西行長は明の皇帝神宗の璽書を文字通り読まないでくれと懇願するが、明使は「爾を封じて日本国王となす」と読み上げてしまう。逆上し使節を追い返した秀吉は家康の反対を退け、朝鮮に再び出兵する(慶長の役)。

 秀吉はまだ勝ってもいないのに宗吉智に朝鮮唐島(現在の済州島)を領地として与えるなどと伝えるが、秀吉は1年後に病死してしまう。日本軍は撤退し、宗吉智は宗義智と名前を戻してしまう。家康は宗義智に朝鮮との復交を命じるが、朝鮮に遣わした使いは捕まえられて帰ってこない。関ヶ原の戦いには参加せず、西軍についた小西行長が斬首されると妻と離婚してしまう。

 慶長10年(1605)、ようやく宗義智は朝鮮の使節を連れて伏見城に上京、家康の前で媾和の基礎を作り、大任を果たす。慶長20年に宗義智は48歳で没するが、家光の時代には対馬藩は釜山に和館を置き、朝鮮との交易を行うようになる。

 と、日本と朝鮮の間のコウモリみたいな立ち位置にありながらも、自身の利益を保つよう立ち回る様子には苦心というより器用という言葉が似合う。現代において宗家当代は対馬を離れて埼玉県にある大学教授を務めていることに、有吉佐和子は以下のように評している。

 時代というものに、まことに敏感な家系であったと言えるだろう。

有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」(集英社文庫,1984)P.168

 国境の島の処世術をよく心得た家だと思うし、そうでないと当主が務まらない島なのだろう。

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  1. 2017/06/01(木) 21:16:06|
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