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芳野満彦「新編 山靴の音」と吉尾弘「垂直に挑む」を比べて読む

 芳野満彦「新編 山靴の音」吉尾弘「垂直に挑む」を対比して読むと面白い。

 両氏はいくつかの山で同行している。2つの本を参照すると以下の3つが該当する。

 いずれも初登攀を成し遂げた登攀であり、奇しくも全て昭和33年である。当時芳野氏27歳、吉尾氏21歳ということになる。

 そもそもアルムクラブの芳野氏と朝霧山岳会の吉尾氏がなぜ一緒に山に登るようになったのか。同行のきっかけは北岳バットレス中央稜初登攀を狙う複数のパーティーがいたことである。無雪期に中央稜にザイルをフィックスしたものがあるという噂が流れ、いかに他パーティーに先んじるかをそれぞれが策を練っていたところ、日本山嶺クラブの奥山章氏のつてで合同で登ることになったそうだ。

 だいたい、吉尾氏が感情的な、芳野氏があっさりとした記述をしている。北岳バットレス中央稜第3ピッチ、第4ピッチにてそれぞれ以下のように書いている。

 しばらく辛抱していると、奥山さんと小板橋君が確保位置を改め、四番の芳野氏を確保し始めたようだ。(中略)

「小板橋くーん。どうしたんだ。登ってきてくれ。セーターだけなんだ。我慢できないよー。ザックだけでも上げてくれ。たのむ。たのむー」(中略)

 私は少しでもバランスをよくするため、一枚でも薄着をして、たとえわずかでも登攀の可能性を高めようと、ヤッケも来ていなかった。(中略)

 しかし、芳野氏はもっと大変だったのだ。その原因は彼の切断された足にあった。第一のオーバーハングを乗り越そうとしてアブミに乗った瞬間、踵しかない足でつま先をかけて乗ったために靴が脱げてしまったのだ。彼は第三ピッチをオーバーシューズの中に靴をぶら下げたままで登ってきた。

吉尾弘「垂直に挑む」(中公文庫,1980)P.52, 53

 第三ピッチには三番の奥山兄まではスムースに行ったが、四番の僕になり急にピッチは鈍ってきた。荷が重すぎたのと、アブミが踏み切れず何度も失敗し、やっと空身になり五番に荷をあずけて、ハングを乗越えた。が、アブミを踏み切る瞬間にアイゼンが残り、ナイロンの靴紐がとけて靴が脱げそうになった。オーバーシューの細ヒモだけで足についている状態だった。時間の消費とトップ二番を寒気に追いやり、三番の奥山兄は長時間の確保のため、きわめて小さなスタンスに無理に立っていたので、軽い凍傷にやられた。

芳野満彦「新編 山靴の音」(中公文庫,1981)P.94, 95

 また、剱岳チンネ正面壁にアタックする日のこと。テントで起床したときの気まずい様子はそれぞれ以下のように書いている。

「おい、起きろ」(中略)

 いやに眠いので時計を見ると、まだ午後8時(9日)である。罪なことをするものだと、さすがに私もむっとして聞いてみた。

「出発は午前1時のはずなのに、まだ5時間もある。時計を見たのですか」

「お前らがいつもモタモタしているからだ。今から準備しなければ間に合わない。田中、お前すぐ食事の支度をしろ」

 田中が羽根だらけのシュラーフから、のそのそと熊のように這い出してきた。私は芳野氏に対して我慢できなくなっていた。その気配を敏感に感じ取った田中に肩を押さえられた。

「我慢しろよ。トラブルは起こすな。アタックがすめば帰りじゃないか」(中略)

 アタックの装備についてもトラブルがあった。私はチンネを登るために軽装を主張したのだ。芳野氏はツェルト、コンロなど通常の装備の他にシュラーフカバーやら、その他ビバーク補助用具を持参するといって聞かない。彼は常にビバークを考えている。私は夜中でも下降する方が好きなのだ。山の登り方が違っていたのだ。結局、田中がキスリングを背負い、持参することになった。

吉尾弘「垂直に挑む」(中公文庫,1980)P.74

 起床は夜の十時ということになっていたが、僕はもう、夕方五時には空腹とアタックの興奮のため眼が覚めてしまった、というより眼がさえてしまったのだ。吉尾君も田中君も、冬眠中の熊のように寝ている。シュラーフをゾロメキで焦がしているので、まるで鳥小屋に寝ているようなミジメな姿で時の経つのを待った。ベンチレーターから冷え冷えとした外気とともに星の煌めきが眼に入った。もう夜になったのだ。吉尾、田中両君をゆり起す。出発予定の十二時までまだ五時間もある。出発準備にはありあまる時間であったが、けっこう食べたり飲んだりいそがしかった。アタック用の食料や三ツ道具などを分担し、ザックに詰めてみるが、とてもサブザックでは入りきらない。田中君にはご苦労だが大ザックを背負ってもらう。

芳野満彦「新編 山靴の音」(中公文庫,1981)P.106

 異なる山岳部の人間が一緒に山に登る際は文化の違いを強く感じさせる。高校、大学、社会人と3つの登山系の部に所属してきた私にもわかる。道具の呼び方ひとつとっても巻き紙、トレペ、トイレットペーパーないし紙と異なる。

 特に吉尾氏より芳野氏の方が年上なので対立する事項があると主導権は芳野氏にあったのだろう。吉尾氏は穂高岳屏風岩中央カンテの項で以下のように書いている。

 私はチンネの登攀以来、がっちり彼に行動の主導権を握られている。今回は特に対等な立場でザイルを結びたいと欲していたので、その布石の一つのつもりだった。

吉尾弘「垂直に挑む」(中公文庫,1980)P.113

 双方の本には上記の3つの山行以降同行したという記述はない。お互い数々の初登攀を成し遂げるほど強固な意志と強烈な個性を持つ登山者であり、何日も生活を共にする雪山では衝突も多いのだろう。別々に登山を続けるのもわからなくもない。

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  1. 2016/10/06(木) 00:02:42|
  2. 書評 - 山岳
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