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「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」を見てきた

 「魔法少女まどか☆マギカ 第10話『もう誰にも頼らない』」を見た魔法少女まどか☆マギカの最終話は贖罪がモチーフかの関連。

 「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」を見てきた。

 前編、後編はテレビ版の焼き直しと聞いていたので見なかった。新編の事前情報としては「叛逆の物語」というタイトル、まったくの新しいストーリー、新キャラのデザインくらいであんまりヒントがなかった。ネットを見ていても謎解き的な書き込みもなく、かといってタイトルからして大円団という感じでもなさそうだし、もやもやしていた。ちょうど内地に来ていて休みをとった1日は1,000円で映画が見られるので見てきた。

 実際に見てきて、私の感想はやはり同じで映画を見れば大筋は分かるから謎解きの要素も少ないし、大円団というには暗い結末だし、確かにまどかがいなくなった後の話だし、叛逆の物語だし、とネタバレせずに感想を書くのは難しい。コレから見る人に言えるのは、最初は「え、よくわかんない」と思うが、その不明点は劇中でも疑問とされ、あとで解消される。

 以下、ネタバレ含む3つ。


 一つ、劇中のほむらはそうする必要があったのか。劇中最初の半分くらいはまさにほむらの望んだ世界であり、違和感を持ちつつも目的は達成されていると言ってもいい。望む世界を手に入れているならば、何も悪魔にならなくてもそのままだまされ続ければよいと思ってしまった。ソウルジェムの濁りが飽和し、いつかは円環の理で自らが消滅してしまうという期限があったから、まどかといっしょになるために悪魔となることを選んだのだろうか。

 一つ、前に魔法少女まどか☆マギカの最終話は贖罪がモチーフかと書いたが、今回もキリスト教の下敷きが見える。叛逆と悪魔というキーワードで思い浮かべるのはルシファーである。ルシファーは天使であったが、神に叛逆し地獄に落とされた。

 一方で、贖罪を否定し悪魔となることで人間らしさを取り戻すという考えもあろう。イエスは人間は罪を犯してしまう存在と説いており、キリスト教ではイエスが贖罪したために人間の罪は赦されたと説く。すべてを神に委ねるというのは宗教者としては立派な態度かもしれないが、人間の自由意志の放棄でもある。ヨーロッパのルネサンスもまた、キリスト教の価値観からの脱却と人間らしさを目指した運動である。

 ギリシャ神話で神様のもとから火を盗み人間に与えたプロメテウスは、人間同士の争いの道具を与えたとして罰を受けつづけるが、人間からすれば行動の自由を与えた神様でもある。神となったまどかから、人間まどかを引きずり出したほむらはプロメテウスでもあり、人間らしさを取り戻した象徴とも言えよう。

 一つ、新世紀エヴァンゲリオンとの相似。エヴァンゲリオンは福音という名前、使徒の存在など、より明らかな形でキリスト教との関連を示唆している。旧劇の「Air/まごころを、君に」では人類補完計画が完成し、シンジは神となったが、人と人があまりに近すぎる完全な生命を否定し、個人が個人として存在する従来の世界を望んだ結果、再び人間となった。この神への昇華とその否定、人間であることの選択は叛逆の物語に通じるものがある。しかし、憎しみを求めたがゆえに人間となるシンジと、愛を求めたがゆえに人間となるほむらでは対極なのに同じ結果となるのがおもしろい。

 こんな長い文章書くつもりなかったのだが、思ったことをまとめようと思っていたら長くなってしまった。前半が訳分かんないまま見ていたので、機会あればもう一回見に行ってもいい。

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  1. 2013/11/03(日) 11:23:17|
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