島ノ中ニ有リblog

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子どもには時間感覚がない - 時実利彦「人間であること」(3)

 過酷な感覚遮断実験 - 時実利彦「人間であること」(1)脳への刺激で記憶が想起される - 時実利彦「人間であること」(2)の関連。

 これに対して、時間を表わすことばが正しく使えるパーセントを表2に示してあるが、三歳になっても、使い間違いが非常に多い。満六歳の子どもで、「さらいねん」「おととし」ということばが正しく使えるのは、わずか20%である。そして、このような時間を表わすことばが正しく使いこなせるには、十歳をまたねばならないという。

(中略)

 ところが、幼稚園で、前の日まできれいに咲いていたチューリップの花が次の日の朝散ってしまったので、先生は園児を集めて、「ほら、きのう咲いていたチューリップが、こんなに散ったでしょう」と話しかけても、園児は何の反応も示さない。そのはずで、園児にとっては、きのう咲いていたチューリップはきのうのチューリップ、きょう散っているチューリップはきょうのチューリップであって、きのうのチューリップがきょう散ったということが体得できないのである。

時実利彦「人間であること」(岩波新書,1984)P.155

 子どもに時間感覚がないというのは驚きである。私の記憶によれば小学校1年生のとき、アサガオを育てたときは、同じアサガオがふたばから成長していったという自覚があった。しかし、それ以前、私が所有していない植物が成長していることに気づいたかどうかは覚えていない。

 ある植物がきのうより1cm, 2cmと成長するのは直感的には常識である。植物に限らず、人間でも相手は前と同じものである、という前提で私たちは社会生活を行っている。きのう先生だった人は、今日も先生だし、あすも先生であろう。動物でも自分の子どもを昨日と今日で取り違えるということはあるまい。

 しかし過去や記憶を懐疑的に思考すると、バートランド・ラッセルの言う世界五分前仮説に到達する。そこには時間の流れというものはなく、過去も未来もなくただ現在だけが存在することになる。経験に基づくかどうか分からない、過去の記憶を持つ「私」が思考する世界である。

 子どもに時間感覚がない、というのは子どもはある意味で哲学的な思考に沿って忠実に行動している結果なのかもしれない。何も考えない人と深く考え抜いた人で結論が一致するというのは面白い。高度に発達した論理学は非論理と見分けがつかないのと似ている。

  1. 2010/06/30(水) 23:36:29|
  2. 書評 - 心理学
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脳への刺激で記憶が想起される - 時実利彦「人間であること」(2)

 過酷な感覚遮断実験 - 時実利彦「人間であること」(1)の関連。夢カテゴリの関連。

 私はときどき夢を見て、それをblogに書き留めているが、夢のイメージとはつくづく不思議で面白いものだと思っている。私の無意識を反映しているのだろうが、その像に私自身なんの自覚もない。ただ一度思い出して記憶として定着すると、その後はかなりはっきりと思い出せる。ただ、その像は起きたあと何度か思い出し反芻するうちに創った部分もかなりあると思う。

 それでも私の考えてもいないことを、私が考えているというのは面白い二律背反だと思うのである。

 一方で、脳の部分部分にはその人の経験に基づくいろいろな視覚像が織り込まれているようだ。

100626ningen-kioku.jpg

↑ある人の脳に電気刺激を与えると、いろいろな視覚像が想起される(時実利彦「人間であること」(岩波新書,1984)P.103)

 意識ある状態で脳を手術しているときに、側頭葉のいろいろな部位に電極をあてて刺激すると、その人が体験したことをまざまざと想起するのである。ある部位を刺激すると、かつて聞いたことのあるオーケストラが聞こえてき、刺激するたびに同じオーケストラがはじめから聞こえたという。図18に、側頭葉の電気刺激によって、いろいろな視覚像が現れることを示してある。

時実利彦「人間であること」(岩波新書,1984)P.102

 「記憶」なんてものは脳の中でシナプスが複雑に絡み合って収納されていると思っていたのだが、意外に簡単に収納されているのかもしれない。夢で見る像も記憶と同じように織り込まれているのだろうか。応用すれば脳の適当な部位に刺激を与えて新しい記憶を作ることもできるのだろうか。

  1. 2010/06/29(火) 00:02:54|
  2. 書評 - 心理学
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過酷な感覚遮断実験 - 時実利彦「人間であること」(1)

 時実利彦「人間であること」を読んでいる。

 タイトルからすると哲学的あるいは倫理的な観点から「人間であること」を述べた本のように見えるが、筆者が脳生理学を専門とする教授だけあって中身はもっぱら脳生理学の話である。

 初版が1970年、読んでいるのが1984年第24刷と若干古いのが難点だが、人間のからだというハードウェアとこころというソフトウェアをつなぐ面白い分野の本である。

 その中で他の実験と比較すると、かなり危険に見える感覚遮断実験の絵があったので紹介する。

 まずは他の実験。

 幸村誠「プラネテス」で主人公ハチマキが空間喪失症と発覚する実験。

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↑視覚・聴覚を奪う感覚遮断。このあと照明が消える(幸村誠「プラネテス」vol. 1(講談社,2001), p. 199

 ある程度広い部屋で行われており、空間的な閉塞感はない。宇宙飛行士でなくとも眠ることができれば数時間はこなせそうだ。

 もう一つ他の実験。感覚遮断による幻覚 - 野口 薫ほか「新版 心理学入門」(1)でも紹介した実験。

100626kankaku-shingigaku.jpg

↑視覚・聴覚・触覚を奪う感覚遮断(野口 薫、糸魚川 直祐、伊藤 隆二、辻 敬一郎、青木 孝悦、萩原 滋「新版 心理学入門」(有斐閣新書,1996)P.42

 被験者は、図1.25(a)に示すような実験場面に入れられる。プラスチックの覆いが眼に入る光を拡散させ、やわらかい枕と空調機とファンからでる連続音が耳への刺激を単調にし、手袋や綿のカバーで手や指への刺激が絶たれる。このような孤立状態で数日を過ごすと、次のようなドラマチックな効果が生じる。

 部屋全体が波うって、流れ出す…床も壁もいたるところで波うっているーおそろしい光景だ。自分の眼を開けているのがむずかしい。視野は混沌としている…

W.ヘロン、1957
野口 薫、糸魚川 直祐、伊藤 隆二、辻 敬一郎、青木 孝悦、萩原 滋「新版 心理学入門」(有斐閣新書,1996)P.43

 これも1日以上となるとつらいが、やはり眠ることさえできれば12時間くらいまでなら耐えられそうだ。

 で、問題の「人間であること」の感覚遮断実験。

100626kankaku-ningen.jpg

↑視覚・聴覚・触覚を奪う感覚遮断(時実利彦「人間であること」(岩波新書,1984)P.71

 人間を対象とした孤独実験の状況を図13に示してある。被検者を裸にして、身体と同じ比重で体温と同じ温度の液体のなかにいれ、顔には呼吸や食事のためのマスクをかけ、暗黒の無響室のなかで、身体を動かさないように命じておく。このようなきびしい孤独条件では、数時間もすると、精神的、肉体的にパニックの状態になるという。

時実利彦「人間であること」(岩波新書,1984)P.71

 ろくに足もつかない、横になることもできない、いわば真っ暗な海の中で泳ぐな、と言われている状況では発狂するのは当然だと思う。発狂したら溺れそうだけど、この実験本当にやったのだろうか。第一、孤独実験なら感覚を遮断する必要はないと思うのだが。

 昔の人は偉大だと思う反面、恐ろしいことをやるなあと思う。

  1. 2010/06/28(月) 00:10:29|
  2. 書評 - 心理学
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MacBook USキーボードで英数キー・かなキーを使う

 MacBookのキーボードを交換したときに「英数」「かな」キーがなく、一発で英数⇔かなの切り替えができない点が不便だと述べた。

100626USkeyboard.jpg

↑コマンドキー(⌘)が2つあるUSキーボード。日本語キーボードでは左が英数、右がかな。

 英数とかなでキーを分ければ、現在どちらの入力モードになっているか分からなくても、希望の入力モードに変えることができる。USキーボードではコマンドキー(⌘)+スペースキーで入力モードを切り替えることができるが、現在の入力モードが分からない状態で入力すると希望のモードと異なるモードになるおそれがあった。

 めんどうなのでOSを再インストールをするのをきっかけになんとか解消しようと探してみた。

 そうしたらKeyRemap4MacBookが見つかった。

100626keyremap.png

↑KeyRemap4MacBookの設定画面

 KeyRemap4MacBookをインストールし、システム環境設定から設定画面を開き、remappingウィンドウから以下の2箇所にチェックを入れる。

 これでコマンドキーとしての機能を維持しつつ、コマンドキー単独で押したときに英数、かなにモードが替わるようになった。

  1. 2010/06/27(日) 22:30:02|
  2. コンピュータ
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MacOSXの再インストール

 ブートに使用しているパーティションはディスクユーティリティでサイズを変更できないの続き。

 前回までのあらすじ:以前換装したハードディスクは160GBあり、MacOS分とMS-DOS分半々に分けてパーティションを切っていたが使っているMacBookのMacOS分のパーティションが74.4GB / 79.88GBといっぱいになってきていた。MS-DOS分はBoot Campで遊ぶかと思ったがまったく使っていなかったのでパーティションを切り直してすべてMacOSで使うことにした。しかし、パーティションを切り直すにはOSの再インストールが必要であり、めんどうなので放ったらかしにしていた。

 この土日ヒマができたのでOSの再インストールを行った。MacOSX10.5Leopard付属のTime Machineを使うと作業は非常に少なくてすんだ。

手順は以下のとおりで所要時間は5時間ほど。

  1. ディスクユーティリティを使ったハードディスクの修復
  2. ハードディスクの消去
  3. MacBook付属のMac OS X 10.4 Tigerのインストール
  4. Mac OS X 10.5 Leopardのインストール
  5. Time Machineを使ったシステムの復元
100626backup.png

↑Time Machineを使ったシステムの復元(Mac OS X Install DVDの操作方法フォルダにあるインストールガイドより)

 今回はじめてTime Machineを使ってシステムを復元したのだが、AirMacの設定やあとからインストールしたアプリケーション、さらにそれぞれのアプリケーションの設定まで復元することができた。おかげでOSの再インストールで一番時間のかかるプリンタ等各ドライバのインストール、よく使うソフトのインストールと各種設定をまるまる省くことができた。

 再インストール前と変わっているのはChromeの履歴が消去されていることくらいだろうか。ブックマークは保存されていた。

  1. 2010/06/27(日) 20:20:54|
  2. コンピュータ
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錦糸町「よしの軒」

 新日本フィルのバッハを聞きに行ったあと、押上まで歩き、途中でよしの軒というラーメン屋に入った。

100625yoshinoken1.jpg

↑よしの軒の店構え

 店には客が誰もいなかった。錦糸町駅から少し離れているし、時間も21:30ごろと遅かったからかもしれない。しょうゆつけめんを頼む。大盛りも並と同額らしいので大盛りを頼む。

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↑しょうゆつけめん大盛750円(並盛・大盛同額)

 スープははやりの節系で魚介の味が強い。私の好きな味だ。麺は少し縮れのある平麺。おいしかった。最後にスープ割りですべて飲みきった。

 店を出て北へ進み、浅草通りから東武タワーが見えた。建設中とはいえ、かなりの高さなので赤い点滅灯がついていた。

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↑押上の東武タワー

  1. 2010/06/26(土) 00:43:43|
  2. ラーメン
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新日本フィルのバッハを聞きに行った

 新日本フィルハーモニー交響楽団 第463回定期演奏会 トリフォニー・シリーズ 「その音楽は無限大∞」を聞きに行った。

100625shinnihonphil.jpg

↑演奏会チラシ

 曲目は下記の4曲である。

J. S. バッハ作曲(エルガー編) 幻想曲とフーガ ハ短調 BWV 537
J. S. Bach (arr. Elgar) / Fantasia and Fugue in C minor BWV 537
ハチャトゥリャン作曲 交響曲第3番ハ長調『交響詩曲』
Khachaturian / Symphony No.3 in C major ″Symphonic Poem″
J. S. バッハ作曲(レスピーギ編) パッサカリア ハ短調 BWV 582
J. S. Bach (arr. Respighi) / Passacaglia in C minor BWV 582
レスピーギ作曲 交響詩『ローマの祭』
Respighi / ″Roman Festivals″

 みて分かるとおり、私の好きなJ. S. バッハ作曲の曲が2曲あったので珍しくコンサートに行った。A席の割引で5,500円。

 目的の2曲、「幻想曲とフーガ ハ短調 BWV537」と「パッサカリア ハ短調」について。

幻想曲とフーガ ハ短調

 聞いていて違うなと思ったのだが、それもそのはず、私は「幻想曲とフーガ ト短調 BWV 542」のつもりで聞きに行っていたのだが、演奏されているのは「幻想曲とフーガ ハ短調 BWV 537」だったからだ。

 「幻想曲とフーガ ト短調 BWV 542」は映画「劔岳 点の記」でも使われており、よく印象に残っていたので聞こうと思っていたのだが、演奏された「幻想曲とフーガ ハ短調 BWV537」もバッハらしい曲であった。

 「パッサカリア ハ短調 BWV 582」は私が最も好むバッハの曲である。もともとパイプオルガンの曲だが、オーケストラ用に編曲されていた。原曲の旋律をていねいに受け継ぎながら、弦楽器のよさを引き出したいい演奏だった。

 たまには生演奏を聞きに行くのもいいと思った。

  1. 2010/06/26(土) 00:28:35|
  2. 日記
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あちこちでアジサイが咲いている

 バス停に行く途中、団地の中であちこちにアジサイが咲いているのを見かける。

100624ajisai1.jpg 100624ajisai2.jpg

 今年の梅雨はあんまり雨が降っていないが、アジサイが咲いていると季節は梅雨という実感がわく。

  1. 2010/06/25(金) 00:00:32|
  2. 通勤途上にある畑
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車で暴走する夢を見た

 車で暴走する夢を見た。

 といっても私が運転していたわけではない。少なくとも私は表層意識では車の運転を嫌っている。それは私が車を運転しない理由に示したとおりだ。

 私が見た夢の中では、なぜか免許を持っていない母が運転していて、案の定運転がうまくなかった。他に誰が同乗していたのか分からないが、私は後部座席でその運転に恐れをいだいていた。いつのまにか途中から運転者が弟に変わっていたが、弟はさらに車を加速させ、対向車すれすれのところを走っていた。そしてT字路にぶつかるところで夢の記憶が消えている。

 弟は運転免許を持っているし、決して運転は荒くないのだが、なぜかそんな夢をみた。私の車に対する恐怖が他人の姿を借りて現れたのだろうか。よくわからない。

  1. 2010/06/24(木) 00:42:27|
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「登ってきた」サブカテゴリを設けた

 登山カテゴリのエントリの数が増えてきていたので、サブカテゴリとして「登ってきた」を設けた。

 山に登ってきたときの一次報告をここに書き記す。後で書いた記録はリンクをつけて参照できるようにしてある。また山に行く前の書き込みも「登ってきた」サブカテゴリに入れた。

 それでも「登ってきた」以外の「登山」カテゴリに属するエントリは112もあるし、「コンピュータ」も144、「書評」も110、無分類の「日記」も108ある。エントリ数が100を越えるカテゴリは適宜サブカテゴリを設けた方がよさそう。何より私がわかりやすい。

 問題は適当なサブカテゴリ名が思い浮かぶか。

  1. 2010/06/23(水) 00:00:18|
  2. blog/webpage
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勝田台リブレ京成で流れていた曲を思い出した

 勝田台リブレ京成で流れていた曲名が思い出せないの続き。

 朝、トイレの時間に思い出した。

 勝田台のリブレ京成で流れていた曲は映画「劔岳 点の記」に出てきた曲だ。映画「劔岳 点の記」というとバッハのイメージが強かったので、てっきりバッハかと思っていたが違った。

 帰ってきてから映画「劔岳 点の記」の曲目を調べてみると、マルチェロのオーボエ協奏曲 ニ短調より第2楽章であった。

 前日まで考えても解決しなかったことが、朝起きて解決するという典型的な事件だった。よくいうように寝ている間に頭の中が整理されるのだろうか。

 残念ながらこの日の夢は覚えておらず、代わりに朝起きたら足の裏が正座のあとのようにしびれてよたよたしか歩けなかった。何か因果関係でもあるのだろうか。

  1. 2010/06/22(火) 23:19:28|
  2. 日記
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勝田台リブレ京成で流れていた曲名が思い出せない

 私はJ.S.Bachが好きであるの関連。

100621katsutadai.jpg

↑勝田台の夕暮れの空

 勝田台駅で帰りのバスを待つ間、リブレ京成3階の100円ショップでサンダルを物色していたのだが、館内の放送でバッハの曲が流れた。落ち着きなく合うサイズのサンダルがないことを確かめ、帰ったのだが、帰って調べても曲がわからない。

 聞いたことがあるのは確かなので、図書館でCDを借りたことがあるとおもうのだが、分からない。フルートとバイオリンが聞こえたので、たぶん管弦楽組曲ではないかと思うのだが、YouTubeで探しても見つからなかった。

 好きなわりに詳しくはないんだよなあ。気になる。

 続き:勝田台リブレ京成で流れていた曲を思い出した

  1. 2010/06/21(月) 23:36:36|
  2. 日記
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帰りに夕焼けが見られるようになった

 畑で見られる朝日のようす明るい夕焼け今日、帰りの空が怖かったの関連。

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↑6月18日夕方の空

 日が長くなって、早く帰った日はバス停からの帰り道でも夕焼けが見られるようになった。

 6月14日に梅雨に入ったけど、梅雨前線は本州より南にあって関東はあまり雨が降っていない気がする。

  1. 2010/06/20(日) 22:36:10|
  2. 通勤途上にある畑
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オランダのユニホームのカラーと名誉革命

 今日のワールドカップサッカー1次リーグE組、日本対オランダ戦は残念であった。しかし優勝候補のオランダ相手に善戦したと思う。

 ところでオランダのユニホームがなぜオレンジ色なのか疑問に思っていたら、オランダ王家の色らしい。

 そうオレンジとは、その名もズバリオランダ王室オレンジ家(=オラニエ家)の色。

サッカー色物語・第二話 オレンジ軍団――オランダ代表 - [ワールドサッカー]All About

 ああ、そういえば世界史にオラニエ公ウィレム夫妻だかオレンジ公ウィリアム夫妻だかそんな人たちがいたな、と思いだした。調べるとイギリスの名誉革命の際、イングランドからオランダに嫁いだメアリー(オラニエ公ウィレム夫人)とその夫を次の王にすえたそうだ。

 名誉革命(めいよかくめい、Glorious Revolution)は、1688年から1689年にかけて、ステュアート朝のイングランド王ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)を王位から追放し、ジェームズ2世の娘メアリーとその夫でオランダ統領のウィリアム3世(ウィレム3世)[1]をイングランド王位に即位させたクーデター事件である。

名誉革命 - Wikipedia

 意外なところで世界史の勉強になってしまった。

  1. 2010/06/19(土) 23:12:46|
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テーマパークのプールでアスレチックに登った夢

 2日続けて夢の話。

 私はどこかテーマパークの前を通ってどこかへ向かう途中だった。テーマパークから太い道路に沿って100mほど歩いたところで交差点に出て信号待ちをしていた。信号を渡ってから後続の誰かを待ったが、一向に来る気配がない。待つ間なぜか手元に持っていたおかきをその場でバリバリ食べる。これがけっこうおいしくてパッケージを見るとホタテを使ったおかきだった。

 誰を待っていたのかよく分からないが、その後続が来ないのでテーマパークへ引き返した。時刻は夕方でテーマパークは閉園時間なのかたくさん人が歩いてきていた。何かのイベントがあったのか、ドラゴンボールやナルトのコスプレをした外国人がテーマパークからこちらへ歩いてきていた。

 テーマパークへついて中へ入る。閉園しているのかどうかはよく分からなかった。テーマパークの中は壁の高さが3mほどのプールの底のようであり、迷路のようになっていた。そしてスプリンクラーのような機械で水を散水していた。私もその水を避けようとしたがよけきれず水がかかってしまった。

 次の部屋は高さ3mほどの高さの壁を手がかりを伝って斜めに登るアスレチックになっていた。ただしときどき水がかかる。SASUKEのステージのようなところで私はすこしずつ登っていったが、だんだんホールドが小さくなりノロノロとしか移動できなくなってしまった。気がつくと後ろから人がつづいている。みんな会社の作業着を着ていて、私も作業着になっていた。ギャラリーもいてやはり作業着だ。後続の慣れていると思われる人がものすごい速さでこのアスレチックをたどってきて、ほとんど動かない私をまたぐようにして覆いかぶさった。

 そこでいったんシーンが途切れる。そのアスレチックの壁は公民館の小ホールのステージになり、ステージで誰かがクイズを答えていた。私は小ホールの隅のステージ側にいてそのクイズに答えていた。相変わらずギャラリーはたくさんいた。クイズの内容は文京区の住所を答えられるだけ答える。私は床に置いた紙に本駒込とか千石とか水道とか書いていたけど5つほどしか浮かばなかった。

 その小ホールの隅で紙に書いていたら、そのまま家の和室の押し入れ前にワープしていた。ギャラリーはおらず、2人の大学の友人がいた。私の手元の紙は山で使うザックに変わっていた。ザックの中身を取り出してみていた気がするが、よく思い出せない。

 またひとつかふたつシーンをはさんでから家の私の部屋で何人かとパソコンでネットを見ていた。かまいたちの夜のようなサウンドノベル形式のあるゲーム、ーーあるいはエロゲーだったかもしれないーーに、ホラーのシーンがあるというので、それを説明したウェブサイトを見ていた。そのホラーのシーンもサイトに載っていて、女の子が顔にストッキングをかぶって引っ張ったような顔が画面全体に映し出されていた。不気味ではあったが、思ったほどではないと感じた。

 そのあとは夢を見ず、何度か起きそうになったが、目覚ましに起こされるまで起きなかった。


 特にテーマパークに行きたいという願望もないし、ナルトも読んだことないし、エロゲーもやったことはないのだが、私の無意識なのだろうか。

 今朝は朝飯を食べながら、夢の内容を反芻していたのだが、それでもまだ思い出せないシーンがいくつかある気がする。一方でそんなことをしていたら朝飯を食べおわるのがいつもより5分ほど遅れてしまい、出勤してもなかなか頭がすっきり覚めなかった。決して耽美的とはいえない夢だが、それでも無意識の世界にいるのは気持ちがいいのかもしれない。一方であまり夢の世界に浸っていると現実に戻れないような気がして怖い思いをした。

  1. 2010/06/18(金) 21:38:05|
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夢を思い出す過程と濁った水の夢

 ここのところ、寝るときに見た夢を覚えていようと努力しているのだが、見ていた夢のわずかしか思い出せない。半覚醒状態で朝飯をモゴモゴ食べている間に思い出そうとしてなんとなく思い出せるのだが、そのあと通勤途中で寝ているからかすっかり忘れてしまう。

 夢を思い出そうと努力していて気づいたのだが、夢の世界ではどうも時間の非対称性が成り立たない気がする。起きている時のはなしは、古いことから新しいことへ順に思い出さないと訳がわからなくなるが、夢の話はそもそもがわけ分からないからか、起きる直前に見ていた夢から時間をさかのぼって思い出すことがある。たとえば駅へ歩いていって電車に乗って東京へ行く夢だったら、「東京にいる夢を見て、その前に電車に乗っていて、その前に駅へ歩いていった」という感じ。不思議な感じがする。


 ここ2日の夢ではそれぞれ1シーンしか思い出せないが、どちらも濁った水を上からみているシーンであった。

 おとといの夢ではごく小さい川に板で渡されたこれまた小さい橋がかかっていて、雨のあとなのか泥水がザーザーと流れていた。夢の設定では都内なのだが、その風景は山の中の沢であった。

 昨日の夢では街中の用水路に小さな水門があり、そこに水が溜まっていた。四畳半ほどの小さな水たまりだが、街中にあるからかホコリで汚れており、流れていなかった。

 私はどちらも濁水を眺めているだけであった。このシーンの前後も思い出せない。何か濁った水に印象づけられているのだろうか。


 夢カテゴリを新設しました。

  1. 2010/06/17(木) 22:12:16|
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牧草地に何かが植えられていた

 牧草地が耕されたの続き。

 起こされた牧草地に何かの草が植えられていた。

100615kusachi.jpg

↑ふたばの出た草がチョボチョボと植えられていた

 これから夏にかけてぐんぐん伸びていくのだろう。

  1. 2010/06/16(水) 00:52:18|
  2. 通勤途上にある畑
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人は人を殺しやすい傾向がある - 宮城音弥「人間性の心理学」

 宮城音弥「人間性の心理学」を読んでいる。実は以前1回読んだことがあり、家にも1冊あるのだが、読んだことに気付かず買ってしまった。どうせ読んだことも忘れているくらいなのだから、とまた新しい気持ちで読んでいる。

 「偽善について」の項で感心した記述を見つけた。

 この点についてフロイトはフレーザーを引用する(『精神分析入門』)。

「深く根をおろしている人間の本能が法律で強化される必要があろうとは思われない。人間に、食べたり飲んだりするのを命ずる法律はないし、火のなかに手を入れるのを防ぐ法律もない。人間は本能にそむいて行動する場合にうける自然的な罰ーー法律的な罰でなくーーをおそれて本能的に、食べたり飲んだり、手を火から離したりする。自然みずからが禁止し罰するものは、法律で禁じたり罰したりする必要はない。

 だから、法律で禁じられている犯罪というのは、多くの人たちが、自然的な傾向によって犯しやすいものだということが認められるであろう。もし、この悪い傾向がなければ、犯罪はないであろうし、犯罪がなかったならば、それを禁ずる法の必要があろうか。」

宮城音弥「人間性の心理学」(岩波新書,1995)P.117-118

 これを読んである議論を思い出した。

 5年くらい前だろうか、いっとき「なぜ人を殺してはいけないのか」という議論がテレビなどで流行っていた。なぜそんな議論が流行っていたのかは思い出せない。

 明らかに万人が合意する答えのない問いであり、さまざまな人がさまざまな議論を展開していた。私自身はいまのところ人を殺す動機もないし、他人に道徳を教える立場にもないので深く考えることはなかった。

 少し話がそれたが、「人を殺してはいけない」点について社会的には合意が形成されている理由は、上の引用からひけば多くの人たちが、自然的な傾向によって犯しやすいものだからと言えるだろう。

 ということは多くの人たち、すなわち社会の中で生きている人たちは「人を殺しやすい」傾向があるのだろうか。直感的に納得しがたいが、新聞・テレビでは毎日のように殺人事件を報じている点、ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争状態」という言葉、国際紛争を解決する手段として戦争がなくならないこと、などを考えれば「人は人を殺しやすい」傾向があるのかもしれない。


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  1. 2010/06/15(火) 21:46:42|
  2. 書評 - 心理学
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小惑星探査機はやぶさの帰還

 昨日の夜は、和歌山大によるイトカワの大気圏突入のライブ映像を父と見ていた。

 ニコニコ生放送などでもライブ映像が見られたようだが、だいぶ混雑しているようで和歌山大によるUstreamしかつながらなかった。JAXAの相模原管制室のライブ映像もつながらなかった。

 音声も映像も断続的にしか送られずやきもきしたが、23時頃に彗星のように移動する光の流れを見ることができた。それがはやぶさ本体なのか地球に降下するカプセルなのか分からなかったが、周囲の星より明るく、地球に帰還したのを誇示するかのようだった。一瞬ではあったが見ていた感動した。

 またのちに見た、はやぶさがカプセルを切り離したのち花火のように輝いて散るようすもはかなげで悲しいような寂しいような感情を抱いた。

 小惑星探査機はやぶさや小惑星イトカワはスラッシュドットジャパンではじめて知った。宇宙事業は日本でもH2Aロケットなどいくつかやっているのは知っていたが、どんなプロジェクトがあるのかはよく知らなかった。ただ、スラッシュドットジャパンで「イトカワ星人」なる存在を冗談でうわさしていてそれがこっけいだったのでよく覚えていた。イトカワ星人の所行は以下のコメントにまとめられている。

イトカワ星人乙! (スコア:5, おもしろおかしい)

Anonymous Coward : 2005年11月26日 21時25分 (#838423)

 はやぶさの下をウロチョロしていたり [slashdot.jp]、健康な暮らし振りをレポートしたり [slashdot.jp]、ホームビデオで撮影しているのが目撃されたり [slashdot.jp]、今回のプロジェクトでの、まさしく人知を越えた活躍ぶり、どうみてもイトカワ聖人です。ありがとうございました。(後略)

http://slashdot.jp/science/comments.pl?sid=288439&cid=838423

 その後、ニコニコ動画で探査機はやぶさにおける、日本技術者の変態力という動画を見て、そのフェイルセーフの層の厚さと技術屋のアイディアに同じ技術屋の端くれとして脱帽した。

 そんなこともあってはやぶさの帰還は実に嬉しかった。

 JAXAとはまったく無関係の一市民にも感動を与えてくれたはやぶさと、はやぶさのミッションを実行した人たちにエールを送りたい。

  1. 2010/06/14(月) 22:08:54|
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足尾・松木沢に行ってきた

 松木沢へ行ってきた。

 今回は教えるのが中心で、教えることで勉強になった。

 なお今年は天気もよかった。

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↑松木沢ジャンダルム全景

10matsuki_22.jpg

↑ビレイする私

2010年夏 - 足尾・松木沢
http://nakayamayu.web.fc2.com/record/2010/10matsuki/
  1. 2010/06/13(日) 22:27:05|
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キットカットメープル味

 私がメープルシロップ味が好きなことはカロリーメイトメープル味を食べてみたでも触れているとおりだが、キットカットでもメープル味というのがあったので食べてみた。

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↑キットカットメープル味の外装

100427kitkatmaple2.jpg

↑キットカットメープル味の中身

 残念ながらメープルの香りはあるものの、味はふつうのホワイトチョコレートと変わらない。

 カロリーメイト同様、もっとメープルシロップの味を強くしたらおいしいのだけれど。キットカットでいうならキャラメルプリン味くらい甘くてもいい。

  1. 2010/06/11(金) 00:23:23|
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蔵前の鳥越神社を訪れた

 夜勤明けでなんとなく近くの鳥越神社へ行ってみた。蔵前橋通りから見える神社で大きそうな神社である。

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↑蔵前橋通りをはさんで見た鳥越神社

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↑鳥越神社のやしろ

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↑鳥越神社の説明看板

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↑鳥越神社の鳥居の下にかかる白鳥橋。ただし川はない。

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↑鳥越神社西側の鳥居。木が多い。

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↑鳥越神社西側に伸びるおかず横丁。

 木が多いので広い神社かと思ったらさほど広くはなかった。でも大きな社で古い神社のようだ。

  1. 2010/06/10(木) 22:23:18|
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ゆめ半島千葉国体・ゆめ半島千葉大会記念ウォーター”ちばポタ”

 東京水を飲んでみたの関連。

 母が自治会の催しで近所の柏井浄水場へ見学に行っていた。そのときにおみやげとしてボトル詰めの水道水をもらってきていた。

 最近は東京に限らずどこの自治体でも同じようなことをやっているのだなあ。

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ゆめ半島千葉国体・ゆめ半島千葉大会記念ウォーター”ちばポタ”ちば水

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ゆめ半島千葉国体・ゆめ半島千葉大会記念ウォーター”ちばポタ”ちば水のそれぞれ裏側

100607chibapota_03.jpg

ゆめ半島千葉国体・ゆめ半島千葉大会記念ウォーター”ちばポタ”の製造情報。採水は松戸市のちば野菊の里浄水場らしい。見学に行った柏井浄水場でないのが何とも。

100607chibapota_04.jpg

ちば水の製造情報。こちらもちば野菊の里浄水場の水らしい。

 せっかくなのだから見学した柏井浄水場の水ならいいのに、ふだん飲んでいる柏井浄水場の水はいまいちなのだろうか。

  1. 2010/06/09(水) 00:25:49|
  2. 食べ物・飲み物
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押上から東京スカイツリーを見上げる

 東京スカイツリーてっぺんのアンテナ用鉄塔の引き上げ方の関連。

 今日、所用で東京スカイツリーのふもと、押上を歩いた。

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↑押上駅A3出口から見上げる東京スカイツリー。近いとさほど高く見えない。

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↑少し離れて見る東京スカイツリー。高い。

100607skytree_03.jpg

↑京成橋から東京スカイツリーを見上げる人たち

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↑押上駅は京成押上線、都営地下鉄浅草線、東武伊勢崎線、東京メトロ半蔵門線の4線が入っている。意外と交通の要衝だ。

  TOKYO SKY TREEによれば現在の高さは398m。まだまだ高くなるようだ。

  1. 2010/06/08(火) 00:05:57|
  2. 東京
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/.から穴に関する話題2つ

 /.Jから穴に関する話題2つ。

 1人で地下鉄を掘る男

 English Russia » The Most Unusual Metro In The Worldの記事に載っている写真を見ると、切羽を開放して人力掘削、掘削した端からレンガをアーチ状に組み上げ支保とする山岳トンネル工法の原始的なやり方のようだ。トンネル断面のサイズと地下鉄という用途から察するにズリ出しはトロッコなのだろう。立坑の絵がないが、斜面の地形から横孔を掘り進んでいるのだろうか。支保工にはロックアンカーを売っている様子もなく、地山にも地盤改良を施していないところを見るとよほど地盤がいいようだ。それでも独りでやっているとしたらすごい。

 中米グアテマラの首都に巨大な穴が発生、建物数棟が飲み込まれる

 首都の街中でこんな大穴が開くのか。自然現象のようだが、宅地開発以前の原地形から陥没の可能性がある程度予測できなかったのだろうか。見えないだけで街のあちこちに穴が開いているようで怖い。

  1. 2010/06/07(月) 00:33:59|
  2. 科学全般
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千葉県・旭市飯岡~銚子市銚子を歩いてきた

 銚子の海岸を歩いてきた。さすがに関東の東端だけあって岬が多く、灯台もたくさんあった。

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↑飯岡刑部岬展望館からの飯岡漁港の眺め

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↑飯岡刑部岬展望館の隣にある飯岡灯台

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↑長崎鼻にある長崎鼻灯台

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↑有名な犬吠埼灯台。海上保安大学校の学生募集の横断幕がなんか似合わない。

2010年夏 - 千葉県・旭市飯岡~銚子市銚子
http://nakayamayu.web.fc2.com/record/2010/10choshi/
  1. 2010/06/06(日) 23:59:41|
  2. 千葉
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牧草地が耕された2010夏

 丸められた干し草の続き。

 草が刈られて丸められていたが、草地に残った草も畑が耕されて見えなくなった。

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↑耕された牧草地

 天気もよくて北海道みたいな風景だ。

 花見川/新川沿いも葉っぱが青々として夏らしくなってきた。

100606shinkawa1.jpg 100606shinkawa2.jpg
  1. 2010/06/05(土) 23:57:12|
  2. 通勤途上にある畑
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幸福は義務であるという論 - 中島義道「不幸論」(2)

 すべての人が不幸ではない - 中島義道「不幸論」(1)の続き。

 著者は正反対の立場をとっているのだが、幸福が義務であると考える人たちもいるようだ。

 さきに挙げたアランの『幸福論』には「幸福になる」義務という一説がある。

(中略)

 幸福になることはいつでも難しいのだ。それは、多くの出来事と多くの人々に対する戦いである。…(中略)…しかし、全力を尽くして戦ってからでなければ、けっして負けたと思ってならないというのは、おそらく最もあきらかな義務である。

(『幸福論』白井健三郎訳)
中島義道「不幸論」(PHP新書,2002)P.89

 幸福になるための努力は義務として行うものではなく、各自勝手にめざすものだと思う。幸福になる努力をしなかったから不幸になったとしてもそれはその人のせいである。「すべての人が幸福であるべし」というユートピアを目指した結果が、「幸福は義務である」というディストピアを生み出しているのではないだろうか。

 そして相手に幸福であることを要請する人もいる。勉強してよい大学で学んでもらうために予備校に行かせるとか、結婚相手を探して幸せになってもらうとか。この本の中にもそのようなことを述べる人のことばが載っていた。

 アランは、各人が幸福になることが義務だと考えるばかりではない。自分が幸福にならなければ他人をも幸福にしないと考える。

 幸福であることが、他人に対しても義務であることは、十分に言われていない。

(前掲書、前掲訳)

(中略)

 アンドレ・ジッドもまた、『新しき糧』の中で、次のように言う。

 ぼくには、自分の周囲に幸福を広める最上にしてかつ最確実な方法は、まずみずから親しく身をもって幸福な姿を示すことにあると気がついた。そこで、ぼくは幸福になろうと決心した。

(堀口大學訳)
中島義道「不幸論」(PHP新書,2002)P.94-95

 私は他人に幸せを強要する権利はないと思う。例えば親しい人を亡くしてほっといてほしいときに「気分転換にどこかに行こう」とか「この本を読むと元気が出る」とか言われてもうっとおしいばかりである。声をかけている人はよかれと思って声をかけるのだろうが、必ずしも相手に喜ばれるとは限らない。

 それはあたかも初詣の行列に「あなたたちは間違っています」と悲痛に叫びかけるクリスチャンに似ている。確かにクリスチャンの行動は正しいのだ。なぜなら神がそのように言っているから。

 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

旧約聖書(新共同訳)出エジプト記20章3節-5節

 それを聞いて「私は神社に参ってはいけないんだ、(一神教の)神様に赦しを乞いに行こう」と気づく人もいるかもしれない。しかし大半の人は「神社まで来てなんでこんな説教受けなきゃいけないんだ」と嫌悪するのではないだろうか。

 「私が幸福だから、あなたも幸福になりなさい」というロジックはまったく同じ構造である。

 私は一見不幸へ向かってつき進んで行く人に積極的に助言を与える気にならない。もっとも助言を求められることもないのでその心配はない。


不幸論 (PHP新書)不幸論 (PHP新書)
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中島 義道

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すべての人が不幸ではない - 中島義道「不幸論」(1)

 私はひとりでいることが好きだ - 中島義道「孤独について―生きるのが困難な人々へ」(1)私は他人が苦手だが、人間嫌いではない - 中島義道「孤独について―生きるのが困難な人々へ」(2)の関連。

 上記の本に続けて同じ著者の「不幸論」を読んでいる。

 まだ30ページほどしか読んでいないが、著者の論の前提である、じつは、ほんとうの幸福などないのだ(P.11)という点には賛成しかねる。

 著者はまた多くの人は幸福であるふりをしたがり、幸福であるつもりになりたがる(P.35)とも述べている。

 しかし、私は人が幸福であるか否かは本人が決めることであると思う。私が幸福か否かは私が決める。他人が決めることではない。

 幸福の尺度として世間では収入、未婚/既婚、学歴といった指標を用いることが多い。あるいは国民総幸福量という観念もある。しかし、それはあくまで尺度であり、年収が一千万円以上の人はすべて幸せであるかというと、たぶんそうではないし、年収が百万円以下の人はすべて不幸せかというと、たぶんそうではないだろう。

 著者は幸福の条件を4点あげそれぞれの条件は成立しないから、すべての人は常に幸福でないと論じている。しかし私が考えるに、人が幸せであるかどうかに分析は一切いらない。その人が幸福と感じるか否か、それだけである。いわば好き嫌いと同じで理由などないと思う。

 また著者は幸福に到達したと思ったとたんに、その代償として膨大な自己欺瞞を背負っている自分に気がつく(P.13)と述べている。「私は幸福です」と感じている人に、著者が「それは自己欺瞞だ」と喝破したとしても、その人は幸福であることに変わりはないと思う。

 そのことは著者が一番よくわかっているのではないだろうか。

 他人の気持ちを大切にすればこそ、勝手に「こうだ」と判断して介入してはならない。雨の降る日はみんな憂鬱だから明るい顔をしよう、と提案することは決めつけであり、暴力である。

中島義道「不幸論」(PHP新書,2002)P.92

 にもかかわらず著者が幸せな人を「自己欺瞞」と言い切るのは、著者が理不尽な目に遭い続けてきたため、あるいは周りにも不幸な人しかいないため、自らの考えを他人に敷衍したのではないかと思う。


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私は他人が苦手だが、人間嫌いではない - 中島義道「孤独について―生きるのが困難な人々へ」(2)

 私はひとりでいることが好きだ - 中島義道「孤独について―生きるのが困難な人々へ」(1)の続き。

 私はこの本の著者と多くの部分で共感しているが、この著者と決定的に異なる点に気がついた。

 それば「私は他人が苦手だが、嫌いではない」ということである。

 ある物事に対して「苦手」かつ「嫌い」ということは多いが、かといって「苦手=嫌い」ではない。私は他人と接するのが苦手だが、できることなら社会に違和感なく受け入れてもらいたいと望んでいる。

 一方で著者は以下のように述べている。

孤独の条件

(中略)

 第一の条件は、あなたが他人とうまくやっていけないこと。他人の一人一人が嫌いなのではないが、他人と一緒にいても自由に心を開くことができず、楽しくない。そして、とにかくくたびれる。すぐに独りになりたいと思ってしまう。そして第二の条件は、あなたが心に不幸であること(あったこと)。…(中略)…あえて言い切ってしまえば、「自分が嫌い」であるという不幸であること。

 第一の条件と第二の条件は不可分の関係にある。第一の条件は「人間嫌い」と言えよう。…(後略)

中島義道「孤独について―生きるのが困難な人々へ」(文春新書,2001)P. 177

 著者は「他人とうまくやっていけない=人間嫌い」すなわち「苦手=嫌い」と扱っている。おそらく著者は両方の条件を満たしているから苦手と嫌いを同値と考えているのだろう。しかし、私のように必ずしも両者を満たさない人間もいる。

 なぜかと考えてみたら、私は著者ほどの不幸な経験を体験していないことが理由であると思う。著者は本の中で触れているが、著者の周囲にはあまりに理不尽な要求をする人が多く、そのために著者は苦しんできた。だから著者は他人が苦手だし、嫌いなのだろう。

 しかし私は幸いにも周囲にあまりに理不尽な要求をする人はおらず、何か失敗があれば私自身に原因を求めなければ解決しないことが多かった。端的に言うと私が悪かったのである。なので自分を嫌いになるならともかく、人を嫌いになる理由はない。

 私が不幸でないことが、私が人間嫌いでない理由のようだ。


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(1998/10)
中島 義道

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神保町「めんめん・かめぞう」

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↑新博多とんこつラーメン「めんめん・かめぞう」の店構え。店名も看板もちょっとアレ。

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↑新博多とんこつラーメン500円。とんこつラーメンと思ったら意外に節系。

 プラスチックブーツに小さな故障があり、神保町のさかいやスポーツへ行った。インナーシューズのひもを通すループがほつれてしまったので、雪山シーズンが終わってから修理に預けた。

 で、帰りにまたラーメン屋によってしまった。神保町は日本大学とか学生の多い街だからかラーメン屋が多く、しかも安い。今回寄ったラーメン屋はさかいやスポーツの近くで一番安いがラーメン+替え玉1回で500円と安かった。

 私も一番安いラーメン+替え玉1回を注文。「とんこつラーメン」かと思ったら意外に節系。細麺と絡んでおいしい。安いけれどもうまかった。

 店長ひとりだけの店で、店長が面白い人だった。最初はなかなか食券受け取ってくれないし愛想ない店長だなと思ったら、他の学生さんらしき客に「学校終わったの?」とか話しかけていた。また、あとから来たやはり学生らしい客が1万円崩してほしいといったら「千円札あったかな…ちょっと待ってな、1万円のラーメン作るからな」と冗談飛ばしたりおもしろかった。


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  1. 2010/06/02(水) 22:23:49|
  2. ラーメン
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私はひとりでいることが好きだ - 中島義道「孤独について―生きるのが困難な人々へ」(1)

 中島義道「孤独について―生きるのが困難な人々へ」を読んでいる。

 私は孤独の定義で触れたように「ひとりでいること」が好きだ。

 なぜ「ひとりでいること」が好きかというと、ひとりの方が落ち着くし、人に煩わされない。集団の中では私は気を使う。特に知らない人や初対面の人には普通の人を振舞うため、とりわけ気を使う。変な人と思われたら嫌だなあとか機嫌を損ねたら悪いなあとか否定的な感情からである。

 何か人に対して粗相してしまうと私はひどく落ち込む。合唱コンクールの練習で音程がおかしいと女子に指摘されたり、車の運転中にクラクションを鳴らされたり、自分のミスで二重に予定を入れてしまって先方にお詫びしたり。いずれも私が悪いので、私が反省し繰り返さないように練習し肝に銘じればよいだけなのだが、私はちょっとミスするだけでひどく落ち込み、前向きな考えが出てこない。いったん落ち込めば3日間くらい頭の中をそのことがかけめぐっているし、勉強も仕事も手に付かない。しばらくして忘れた後もふとした拍子に思い出してため息が出る。

 その上、集団行動で失敗すると笑いものにされそうになるときも、ミスを恐れて大変緊張する。音楽の時間にリコーダーで数人ずつ発表するときや、体育でひとりずつハンドボール投げを行うときなど。特に運動音痴の私にとって体育の時間は苦痛でしかなかった。

 とにかく私は人に笑われるのが嫌であり、人と接しているといつかボロが出るため、ボロが出ないよう緊張して過ごさなければならない。ボロがでれば恥ずかしいし、出なければ緊張が続くので疲れてしまう。ひとりでいるのが一番楽なのだ。

 なのでこの本の筆者の言う私は他人に執着することが嫌いである。他人から執着されることも大嫌いであるP.6)には共感できる。

 しかし私はあるころから「それはそういうもの」として諦めて受け入れられるようになった。私は人から間違いを指摘されるとひどく落ち込む人間で、それを直そうとはせず、ただ時間がたって忘れていくのを願っている人間である、と受け入れるようになった。結果としてミスの後に落ち込むことは変わらないが、落ち込みからの回復は少し早くなったように感じる。

 その点で筆者による不幸を和らげる手段は共感しない。

 この運命は自分が「選びとったもの」だとーー無理やりにでもーー考えてみることなのだ。自分が孤独になったことは誰のせいでもない、ほかならぬこの俺(私)が自分の身にもたらしたものなのだとーー無理やりにでもーー考えてみる。この意味で、孤独を完全に肯定することだ。

中島義道「孤独について―生きるのが困難な人々へ」(文春新書,2001)P. 14

 私は運命を肯定も否定もしない。「それはそういうもの」として受け入れているから。その点で、私の思想は老荘思想に近い。

 一方、人を旧約聖書創世記の登場人物になぞらえて「カイン型」と「アベル型」に分ける考えは強く共感した。

 世の中にはカイン型の少年とアベル型の少年がいる。そして、両者はその後の人生においてまったく生き方を異にする。アベル型の少年が孤独を目指すことは滑稽であり、当人にとって苦痛であるが、カイン型の少年は心して孤独をめざすべきだといいたい。

(中略)

 われわれは小学校のころから、ずっと孤独は「いけないもの」と教え込まれているが、私はそうではないと言いたいのである。ある人(カイン型の人)にとって孤独は自然な生き方である。子供の頃は、孤独を咎められる。みんなと元気に遊ぶことを強要される。私はそれが最も苦痛であった。子供のころ、私を放っておいてくれたらどんなに幸せだったことであろうか。

中島義道「孤独について―生きるのが困難な人々へ」(文春新書,2001)P. 86-87

 この区分で言えば私は間違いなくカイン型である。私もひとりで遊ぶのが好きだった。一人で図書館にこもったり、一人で図鑑を読んだり、一人で学研の科学の付録をつくったり、アサガオの花でリトマス試験紙もどきをつくったりするのが好きだった。友達が遊びに来ても学研の科学の付録で紙を漉いていて断ったり、冬休みほとんど家から出ない私を、母は外で遊ぶよう叱ったが効果はなかった。私には友達と遊ぶ理由がなかったからだ。

 雨の降る日は喜んだ。外で遊ぶことができないからだ。外で遊ぶよう強制されることはない。そんな日は私は床に寝っ転がってゆっくりと落ち着いて本を読むことができた。そんな日は幸せだった。

 カイン型の人間から言えるのは、カイン型の人間をそっとしておいてほしいということだ。「子供は元気にみんなで外で遊ぶものだ」という固定観念を持つのは構わないが、それがどの子供に対しても正しいとは限らない。もし個性を尊重する気があるのであれば、ひとりでいることを個性のひとつと認めてほしい。

 「多くの人と交流を深めることは善である」「ひとりでいることは悪である」「したがってあなたは外へ出て多くの人と交流を深めるべきだ」という宣教師が原始宗教を否定するような方法ではカイン型の人間は心を開かない。「ひとりでいることがあってもいい」と認めるところから、カイン型の人間が世に姿を現せるのではないかと思う。


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  1. 2010/06/01(火) 00:00:43|
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