山ノ中ニ有リblog

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拝島と昭島の由来

 拝島と昭島の由来についても調べてみた。

 ハイジマは「榛島」であって、多摩川河岸などの島状になっている低湿地に、榛が生い茂っていたのを「はいじま」とよんだのではないだろうか。

保坂芳春「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会,1980)P.246

 ハンノキと言われてもどんな植物か知らないが、河川敷に生える木なのだろう。八高線で多摩川を渡るあたりは河原が広く、木も多かったように思う。

 昭島については少し変わった経過をたどった合成地名だそうだ。

 昭島地域は、江戸時代は『新編武蔵風土記稿』によれば、郷地、福島、築地、大神、中神、宮沢、上河原、田中、拝島村に分かれていた。この九ヵ村が明治23年(1890)に九ヵ村組合をつくったが、明治35年(1902)に拝島村が独立してから八ヵ村組合となった。

 昭和3年(1928)この八ヵ村が合同して昭和村と改め、昭和16年(1941)町制をしいて昭和町となった。29年(1954)には拝島村と合併して市制をしいて昭和町の昭と拝島村の島をとって昭島市となったのである。

保坂芳春「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会,1980)P.241

↑昭島市の全体図

 拝島村がいったんは九ヵ村組合に加わったものの12年間で独立し、52年後に改めて合併したということになる。拝島村が独立しなかったら九ヵ村市とか昭和市とかになっていたのだろうかとか、独立・合併したのが拝島村ではなく中神村だったら昭神市になったのだろうかとか、想像が膨らむ。

  1. 2017/03/07(火) 00:01:35|
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留浦(トズラ)という地名の語源

 川苔由来と奥多摩の似た地名 - 奥多摩民話の会編「おくたまの昔話」第二集の関連。

 保坂芳春「多摩の地名」を借りてきたのでパラパラめくっていたら、以前音が似ていると指摘した「留浦」「小留浦」「事貫」の語源が載っていた。

 留浦(トズラ)という地名は山村に多い。留浦の小字に小留浦(コトズラ)があるし、元は隣村であった氷川地内にも小留浦(コトズラ)がある。山むこうの檜原村にも事貫(コトズラ)がある。

 高山植物の権威であった武田久吉博士は、「トヅラ」は元来ツヅラフジ即ちオホツヅラフジの方言であり、それが多量に取れるところから地名となつたものに相違ない」(『民族と植物』山岡書店、107頁)とのべている。

保坂芳春「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会,1980)P.42-43

↑バスの終着の1つでもある旧小河内村の留浦

 植物の名前から取っているのは納得である。

170130tsudurafuji.png

↑ツヅラフジでGoogle画像検索した結果

 オオツヅラフジ(大葛藤、Sinomenium acutum、シノニム:Cocculus acutus)とは、ツヅラフジ科ツヅラフジ属のつる性木本。有毒の植物で、別名ツヅラフジ(葛藤)ともよばれる。

オオツヅラフジ - Wikipedia

 ツヅラフジがどんな植物かわからないのでGoogleで画像検索してみたが、葉っぱの形も葉っぱの厚さもまちまちでつる植物ということくらいしか共通点が見当たらない。こんな植物、里山によく生えていそうだが、毒だというからちょっと驚きだ。

  1. 2017/03/06(月) 23:45:15|
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奥多摩にある大丹波、小丹波の由来

 川苔由来と奥多摩の似た地名 - 奥多摩民話の会編「おくたまの昔話」第二集の関連。

 以前離れたところにある同じ地名「丹波」について不思議に思っていたが、保坂芳春「多摩の地名」をの多摩の語源の項で、説明があった。

「駄馬、または〜駄馬(何々駄馬という地名。著者)は、南予・西土佐にかけて数多く見られる地名群落である。この地名は山中もしくは谷中のちょっとした平坦地、あるいは緩斜地に付けられているが、尾根筋つまり山頂の平坦地などにもつけられている。海沿いの平坦地にもあるので平坦地を第一義とする言葉である」(山口恵一郎氏『地名を考える』115頁)といわれる。

(中略)

 奥多摩町には大丹波、小丹波集落があり、多摩川上流山梨県に越えると丹波山村がある。それらの村々は、山間の狭い平坦地を生活の場とするタバ集落である。

保坂芳春「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会,1980)P.18

↑赤杭尾根を挟んで北にある大丹波、南にある小丹波

 音で「タバ」と言われても平坦地のイメージはないし、他に平坦地でタバと呼ぶところは知らない。山中の平坦地なんて奥多摩と檜原の人が住んでいる場所すべてが対象になりそうだ。そういうものと覚えるしかないのだろうか。

  1. 2017/03/05(日) 00:03:51|
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檜原村人里の由来

 西多摩でも随一の難読地名「人里」について図書館で本を借りて調べてみた。

 多摩の地名について由来を取り上げた本で相当の数の地名が載っている。著者は羽村在住で立川第一中学校の校長などを務め、教職を退いた後書いたそうである。といっても刊行は1980年と30年以上前の本で絶版であり、図書館でしかみられない。

 そんで件の「人里」は「ヘンボリ」と読む。檜原村の南秋川にある集落の名前である。私が初めてこの地名を見たのは高校生の時に買った「アルペンガイド6 奥多摩奥秩父大菩薩」であり、変わった地名があるものだと覚えてしまった。

 さて、なんでこんな読めない地名になってしまったのか、言語学者や民俗学者が昔から論じているようだ。「多摩の地名」では5つの説を紹介している。はじめの2つは信ぴょう性の弱い説として紹介している。

 その後、学者の説を2つ紹介している。いずれも朝鮮語に由来するという説だ。

 戦前では言語学者の中島利一郎氏(1874-1959)が、「難訓地名の研究」ー武蔵奥多摩の人里の読み方についてーという長文の論文で、言語学的に人里(ヘンボリ)の読み方について論じられたのである。

(中略)

 論文は、人を「へん」と読む言語学的根拠、里を「ぼり」と読む言語学的根拠の2つの柱のもとに、微に入り細に亘って論証されている。

 要するに、東洋言語学的にいえば、人をヘンと読むのは蒙古・朝鮮系の言葉であり、里をボリと読むのは朝鮮系の言葉だというのである。そして人里という地名は言語学と、民族学上非常に貴重な材料であるとされている。

保坂芳春「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会,1980)P.104-105

 同じく朝鮮語系で説明されているのは山中襄太氏で、『風土語源物語』(毎日新聞社刊)、『地名語源辞典』(校倉書房刊)両署に「ヘンボリ」をとりあげておられる。

 まず、『地名語源辞典』では、

(人里<ヘンボリ>と読むのは)これはおそらく昔の帰化朝鮮人が、朝鮮語のヘンボリという意味を人里と訳して、この地名にしたものであろう。

 人を意味する朝鮮語hunと里を意味する朝鮮語Purをいへば人里といふことになる。これがだんだんなまってヘンボリになったのであらう。こう考へれば、人里と書いてヘンボリなどと変な読み方をする理由がよくわかる。

保坂芳春「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会,1980)P.105

 最後に著者の保坂芳春氏は「ヘンボリ」の音から「端の方の開墾地」という説を挙げている。

 しかし人里という文字にとらわれず、ヘンボリという音から考えて一私案を提出してみたい。

’(中略)

「へ」は『岩波古語辞典』によれば、「辺、端、方で、端にあたる場所」をさすという。では「ホリ」とは何か。ホリはハリと同じように、田畑の開墾を意味する言葉である。墾の字をあてる。「ホリタ」(堀田、墾田)は開墾地のことだ」と『日本国語大辞典』(小学社刊)にはある。また東北日本では開墾地をホリノウチとよぶという(『地名の語源』)。

 これからへホリは「端墾」「辺墾」ということで、「端の方の開墾地」または「辺境の開墾地」といった意味であったのではないだろうか。へホリがヘンボリにかわるのはむずかしいことではない。

保坂芳春「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会,1980)P.106

 いずれが正しいのかわからないが、これほどに変わった地名で学者が様々な論を展開しているにもかかわらず、由来がわかっていないのは不思議である。住居表示に関する法律により読みやすい地名に改変されてしまった場所も多くあるだろうが、辺鄙なところだからこそ地名がそのまま残ったのは幸いだと思う。変わった地名は特別な由来があろうからそのまま残しておきたいと思う。

  1. 2017/03/04(土) 23:01:00|
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「山と高原地図 剱・立山」を買った

「山と高原地図 剱・立山」を買った。

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↑2016年版 山と高原地図 剱・立山

 手持ちの「山と高原地図 剱・立山」が1989年発行で四半世紀経っているので、5月連休の剱岳北方稜線に合わせて買いなおした。

 久しぶりに地図の薬品くさい新品の匂いをかいだ。縮尺が4万分の1から5万分の1に変更され、立山駅や三俣蓮華岳まで載っているのが大きな変化だ。他にも以下の変更がある。

 ただ地図を眺めていても楽しいが、古い地図と対応させてみるのも楽しい。

 一方で、25,000分の1地形図毛勝山が新宿の本屋2軒を回っても見つからない。今度は立川で探してみようと思う。

  1. 2016/04/22(金) 00:11:11|
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新潮「旅」ムック 日本鉄道旅行歴史地図帳 3号関東

 新潮「旅」ムック 日本鉄道旅行歴史地図帳 3号関東 を買った。

 関東の廃線を載せている興味深い本だ。東京と首都圏私鉄は別の本だが、関東だけでも見ていて面白い。廃線の類はWeb上で文章や写真で見てもどこだかイメージがわかないことが多く、接続駅などから想像することが多いので貴重な資料である。

 近所だと、砂利採取のための福生河原や東福生〜箱根ヶ崎の旧線など。箱根ヶ崎の旧線は横田基地を突っ切っているので基地建設に伴う付け替えだろうか。千葉に目を移すと千葉〜津田沼間の鉄道聯隊の軌道や千葉駅の変遷などが載っていて面白い。京成津田沼駅の変遷も載っているとまた面白いのだが、載っていなかった。

 北関東に目を向けると、東武日光軌道線とか東武高崎線、東武前橋線、東武伊香保線などそこそこ延長のある東武の支線があることを知らなかった。東武伊香保線とか草軽電気鉄道とか温泉に行く列車なんていまどき需要がありそうだが、残念である。

 森林軌道も載っており、奥秩父の入川・滝川森林鉄道も載っているが、和名倉沢の森林軌道は載っていない。森林軌道はさすがに調べきれないのだろう。でも山の方の軌道まで載っているのは山の調べ物をしているときに便利なのでうれしい。

  1. 2015/05/21(木) 23:52:18|
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「36答申における都市河川廃止までの経緯とその思想」という水工論文

 「36答申における都市河川廃止までの経緯とその思想」という興味深い水工論文が土木学会のウェブページで見られるのを見つけた。

「昭和36年 東京 河川 答申」でGoogle検索したら見つけた。

 いきなり余談になるが、水工学論文集は全国の土木系の水工学研究者が9月に論文を投稿し、翌年3月にその内容を水工学講演会として発表する論文集である。一応査読もあり、水工学研究者にとっては1年に1度の大きな発表の場である。私自身も恥ずかしながらファーストオーサーで1件載せている。修士論文の発表の後日、京都まで行ったのはいい思い出である。

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↑港区南青山にて。むかし笄川、いま青山幹線のみち。

 閑話休題。論文「36答申における…」は、タイトルの通り都市河川廃止を決定した36答申の経緯と当時の研究者、行政の河川に対する思想をまとめたものである。東京都区部に多い暗渠について調べていると必ずと言っていいほどこの36答申が出てくる。廃止した河川は暗渠化し下水道として利用されているものが多いからだ。このため、暗渠マニアには有名である、と私は思う。有名な割に古くて原典の入手が難しい。東京都公報に載せているわけでもない。この論文は直接36答申を読めなくても骨子を述べているのでとりあえず読むにはちょうどいい。

 要点をまとめると以下の通り。

 昭和36年当時、区部の河川は晴天時に家庭や工場から排出される汚水が流れ蚊や蝿の温床となっていた。区部の公共下水道は普及率が低く、整備が急務であったため河川を下水道に転用する計画が立てられた。研究者を含めた専門家で話し合った結果、水源を有さない水路、下水処理場に自然流下でアクセスできる水路またはその区間等の条件を満たす12河川を暗渠化することとした。現実には築地川のように住民反対運動が起こり、すべての河川が暗渠とはならなかった。

 ソウルの清渓川復活のように都市における河川の位置づけが高まっているいま、河川を覆蓋化するきっかけとなった36答申に注目したその着眼点が秀逸である。引用もしやすいだろうし、ありそうでなかったニッチな論文である。数式もないので読みやすい。水工学論文集というオーサライズされたものであれば、在野の暗渠マニアの人にも引用しやすく人気が高いに違いない。

  1. 2014/10/25(土) 00:39:26|
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浅井建爾「えっ?本当?! 地図に隠れた日本の謎」

 浅井建爾「えっ?本当?! 地図に隠れた日本の謎」を読んでいる。

 埼玉県で最初に市になったのは浦和でも大宮でもなく川越だとか、日本には寺より神社の方が多いとか、興味深い記述がある。

 過去に読んだ日本全国「県境」の謎と同じ著者で、県境に限らない小ネタを日本の地形や人口、面積、市町村などの行政区分などに整理して書いている。

 ちょっと物足りないのが、出典があまり示されないところ。「東京から川が消えたふたつの理由とは?」という項では、敗戦後の復興でがれき処理のために水路や川に埋めた、東京オリンピックを契機に高速道路の整備や悪臭防止のために暗渠化した、という2つの理由が述べられている。前者は知らないが、後者は暗渠マニアには有名な話である。この本には単に以下のように述べている。

 それから十数年後、東京で再び水路の埋め立てラッシュが始まった。今度は東京オリンピックの開催と、モータリゼーションの到来である。水路は埋め立てられ、道路が拡張された。残された水路の上には高速道路が建設された。さらに、「都市空間を有効に利用する」、「生活排水が流れ込んで悪臭を放つ水路に、蓋をして悪臭問題を解消する」ということを大義名分として、水路は次々に暗渠化されていった。

浅井建爾「えっ?本当?! 地図に隠れた日本の謎」(実業之日本社,2008)P. 141

「都市空間を有効に利用する」については出典は不明だが、首都高に聞けば分かるかもしれない。「生活排水が流れ込んで…」は36答申のことを述べていると思われる。

§1 特別委員会が設置されるに至った理由

(前略)…よって氾濫被害は漸次軽減はしてきているが、前記のような土地発展によって源頭水源を有しない河川の雨天時水流はその殆どが仮定や工場から排出される汚水であるため、常に河川、水路は黒く汚濁され、悪臭を放ち、環境衛生上も重大な問題となり、都民の声も陳情請願の形で在来河川の覆蓋、暗渠化を強く要望してきている。

東京都市計画河川下水道調査特別委員会に関する報告書 昭和36年11月 建設局河川部

 ちょっと調べれば出てきそうなところだが、残念ながら触れられていない。広く浅く、という本の趣旨なのだろうが、理系の人間からするともう少し出典を確かめて書いてほしいというのが本音である。


えっ?本当?!地図に隠れた日本の謎 (じっぴコンパクト)えっ?本当?!地図に隠れた日本の謎 (じっぴコンパクト)
(2008/07/11)
浅井 建爾

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  1. 2014/10/24(金) 21:57:08|
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谷と沢の呼称の違い

 畑の草むしりと雨による浸食でこういう地形なんて言うんだろうと調べていたが、結局見つからなかった。その代わり、谷と沢の呼称の違いについて考察しているおもしろい論文を産業技術総合研究所のサイトで見つけた。

2006年夏 - 魚野川・万太郎谷の写真

2006年に登った魚野川万太郎谷の三ノ滝

 私もこの谷と沢の違いが分からず、ときおり間違えることもあった。この違いに気づいたのは谷川岳周辺の谷と沢である。越後側の魚野川には仙ノ倉谷、万太郎谷、茂倉谷等の谷があり、上州側の湯檜曽川には西黒沢、マチガ沢、一ノ倉沢等の沢がある。なぜ稜線のあっちとこっちでこのような違いがあったのか分からなかった。

↑谷川岳周辺の地形図

 この論文にはアブストラクトがないので、私なりに前段を要約する。

 日本の山の中では川に「沢」と「谷」という呼称が用いられるが、同じような地形をさすにもかかわらず2つの語が共存している。これを地域で整理すると、概ね飛驒山脈を境にして東日本は「沢」、西日本は「谷」が使われている。地形に関する言葉は狩猟などで必須の基本語であり、10,000年〜2,200年ほど前に縄文人が使い出したと考えられる。

 その上で筆者は、以下のように述べている。

 「谷」を使っていた谷族と、「沢」を使っていた沢族なる民族が、相当に長い年月にわたって本州を二分して勢力拮抗していて、その行動範囲のぶつかる地帯が飛驒山脈であり、その後、沢族(日本全土に定着していた土着先住民、時代関係から見て当然縄文人)は、関東地方から東北地方へ、さらに北海道へと追いやられていった。しかし、言葉は音として地名や話し言葉として残った。

(中略)

 既述のように、谷族文化の勢力圏は、本州西半部、四国、九州であったこと、また谷という語の起源は朝鮮半島に今でも残っているタン、ダン、トンであり、一方、谷という字は中国渡来の漢字を当てたものである、ということに異論をはさむ余地は殆どない。三段論法式に言えば、谷族イコール古代朝鮮民族ということになる。

(中略)

 さて、日本の古語で、サワという言葉を何時の時代まで遡れるだろうか。

(中略)

 多くの日本語の語源を探る為に、現在なお生存しているアイヌ語を媒介とする方法が最も近道であることが、鈴木健(2000)による『縄文語の発掘』に大変詳しく述べられている。それによると、サワについて最も分かりやすい音変化の例は下記のようである。

 ソー〔滝〕→サー〔断崖〕→サーヤ<沢,静岡・愛知県北設楽郡,谷川,小川.静岡県周知郡>→サハ→サワ(同義)

隅田 実,日本列島における、地形用語としての谷と沢の分布 —古代民族の文化圏との接点を探るー,地質ニュースNo.563, p.36-45, July, 2001

 なるほど、古代の民族の違いに理由を求めたというのが結論である。「沢」と「谷」という言葉で縄文時代にまで遡るというのが驚きである。有史以前は文字がないため、アイヌ語、琉球語のような古語に近い言葉や伝承の重複から何があったのかを探るほかない。そこには多かれ少なかれ研究者の想像で補うものがあり、そこにロマンを感じる。このような同じものをさすローカル/グローバルの呼称の違いで、言葉の分化した時期を探れるのかもしれない。

  1. 2014/06/20(金) 12:53:43|
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奥多摩湖には2箇所ドラム缶橋がある

 奥多摩湖には2箇所ドラム缶橋があるそうだ。

 私が知っているのは小河内神社バス停から三頭山入口にかかるドラム缶橋。こちらは私が高校2年生くらいのときに渡っている。もう1箇所、留浦にもドラム缶橋がかかっているという話があり、私はそんなところにはないと思う、あるとしても渡る人がいないのではないか、と主張した。

 議論していても真実はわからないので、奥多摩湖周辺に務めていた人に聞いてみたら、確かに留浦にもかかっているとのこと。言われてみたら、トイレのある駐車場から降りていく階段があったような気がする。さらに、鴨沢の諸畑橋がかかる前はそこにもドラム缶橋がかかっていたそうだ。

 私が都県境の縦走のため大寺山に登ったときは留浦に橋がかかっていることなど知らず、鴨沢の諸畑橋から回っていった。知っていたら興味もあるし、都県境尾根も近いので留浦でバスを降りただろう。留浦からドラム缶橋を渡った先には人家はないのは知っていたので、まさか橋がかかっているとは考えなかった。

 Google Mapの航空写真でははっきりしないが、国土地理院の国土画像情報閲覧システムで昭和51年の空中写真を見ると、確かに2箇所とも写っていた。湖面に影が写っていないので水面に橋があることがわかる。

  1. 2012/10/05(金) 20:06:56|
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