島ノ中ニ有リblog

島の生活とか、登山とか、Macとか、日記とか

緩やかに行われた北方領土の占領 - 有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」7

 北方領土の項は少し意外であった。

 日本がポツダム宣言を受諾した後もソ連軍が侵攻してきたというので、無抵抗な日本軍を捕虜にして8月末までに強引に占領したのだと思っていた。しかし、実態はもっと緩やかな占領だったようだ。

 終戦時、歯舞諸島勇留(ゆり)島に住んでいて根室市議会議長を務めていた萬屋さんは以下のように語る。

「今から考えると間抜けな話なんですよ。ソ連の方は色丹や歯舞のことまで考えていなかったのに、択捉へ進駐して日本軍の基地を押え武装解除をしておると、こっちの方にも軍隊があると喋った奴があったんですな。だから9月に入って、やって来たんです」

有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」(集英社文庫,1984)P.370

 20歳前の男女はソ連軍に徴用され、志発島へ連れて行かれました。私は妹夫婦から救いに来てくれと言われて、動力船を根室で借りて、勇留の日本人の逃げるのを手伝いましたが、子供を志発に連れて行かれた親たちは心配で、子供を置いて逃げられないといって島に残りましたね。そういう連中は昭和23年8月に、島に残るならソ連人として国籍を変えろ、でなければ強制送還すると二者択一を迫られて、樺太経由で日本に帰って来たんです」

有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」(集英社文庫,1984)P.371-372

 昭和20年の終戦直後に強制送還されたわけではなく、昭和23年に強制送還されたようだ。

 択捉島内保村に住んでいた西山さんも同様で昭和23年9月に通達があって、日本人は全部、帰れと言われました。P.384)そうだ。

 占領の形は意外と色々な形があるものだ。敗戦した日本はどうしようもなかったのだろうが、なし崩し的に占領して爺さんの代から70年も住んでいる、という論理は受け入れがたい。期間の長さの差はあるがパレスチナ問題を思い出す。

 あと、勇留島も択捉島も北海道ほど寒くないという発言があり、意外であった。

  1. 2017/06/04(日) 00:28:30|
  2. 書評 - 地図・県境・都市河川
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

小笠原にみる領土の実効支配の過程 - 有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」6

 小笠原の項を読むと無人島が発見された後、どのような過程を経てある国の領土に編入されるのかがわかる。言い換えれば小笠原の歴史は各国の思惑に翻弄される過程を示している。有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」及び「週刊 日本の世界遺産 創刊号 小笠原諸島」から抜粋する。

1675徳川幕府による巡検、大日本の内と書いた杭を立てる
1823アメリカ捕鯨船母島にコッフィン島と命名
1827イギリス測量船ブロッサム号父島二見港に入港、イギリス領を宣言
1828ロシア軍艦セニャーヴィン号父島に来航、ロシア領を宣言
1830アメリカ人セーボレーら白人5人、ハワイ人20人が父島に入植
1853アメリカペリー提督、ナサニエル・セーボレーから土地を購入
1854イギリス政府は香港にてペリーに小笠原諸島がイギリス領であることを申し入れるが、ペリーも反論する
1861徳川幕府、ペリーの出版した航海日誌を読み外国人による小笠原諸島入植を知る
1862徳川幕府が八丈島から38名の島民を移住させるが、10ヶ月で引き返す
1873島民が自ら憲法を作成、ナサニエル・セーボレーを長官とする
1875帆船明治丸が父島二見港に入港、明治天皇の命により島情探査
1876明治政府、日本から移民を送り原住民の帰化を促す
1944本土への強制疎開
1945アメリカの統治下に置かれる
1946GHQ、欧米系島民のみ帰島を許可
1968小笠原諸島、日本に返還

 読むと意外と実効支配する国はその時代の状況に応じている。1875年の日本からの移民が現在日本の領土となる決定的な点だと思うが、著者はこのときアメリカとイギリスが反対しなかった理由として1873年に金融恐慌があったことなどを推測している。

 この年、アメリカは金融恐慌が起り、ニューヨーク取引所は閉鎖される有様で、ハワイより小さい島のことなど考える余裕もなかったのだろう。イギリスはヴィクトリア女王の時代で、スエズ運河の買収や、女王がインド皇帝を兼ねるなど赫々たるものがあったが、小笠原はインドやアフリカに較べて小さすぎた。アメリカさえ手を引くなら問題はないという判断だったのだろう。

有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」(集英社文庫,1984)P.329

 領土拡大の目論見と内政に余裕があることが条件であり、あとは他国とのせめぎ合いといったところだろうか。仮に月に容易に行けるようになったら同じようなことが繰り広げられるのだろうか。

 また昭和の時代にも小笠原周辺に外国船がサンゴを取りに来ていたそうだ。

 菊池さんの話は面白くてたまらないが、台湾のサンゴ漁船による被害は甚大で、漁礁は荒らされるし、海底が滅茶苦茶になる。第一、200カイリどころか領海内にも平気で入ってきて、こちらが追いかけると逃げてしまう。昭和54年10月10日から今年の1月26日までに確認された台湾のサンゴ漁船の数は延べで1326隻になる。すべて小笠原村周辺海域で操業していた。

有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」(集英社文庫,1984)P.340

 2014年には中国漁船が小笠原周辺で不法にサンゴを採っていたのが問題になった。資源のあるところは昔も今も変わらぬ問題を抱えていると改めて思う。

  1. 2017/06/03(土) 21:09:49|
  2. 書評 - 地図・県境・都市河川
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

もともと松島と呼ばれていた島が現在竹島と呼ばれている理由 - 有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」5

 竹島は日本の領土であるが、現在韓国が実効支配している。その歴史をひもとくと、昔に松島と呼ばれていた島が現在竹島と呼ばれていることが一因にあるようだ。

 隠岐で調べてみると昔の竹島は鬱陵島のことで、今の竹島は明治38年までは松島と呼んでいたことが分った。

有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」(集英社文庫,1984)P.284

 有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」にはこの経緯が文章で説明されているが、地図に落とさないといまいちよく分からない。そこで18世紀末ごろにこれらの島を測量した位置をGoogle Mapに落としてみた。

 西から並んでアルゴノート島、ダジュレー島、ホーネット島(リャンクール列岩)の3つがある。アルゴノート島は現在相当する島が存在せず、現在の鬱陵島の測量間違いだそうだ。ダジュレー島は現在の鬱陵島に相当し、ホーネット島(リャンクール列岩)は現在の竹島に相当する。

 もともと日本では西寄りにあった島(現在の鬱陵島)を竹島、東寄りにあった島(現在の竹島)を松島と呼んでいたため、シーボルトはアルゴノート島に竹島、ダジュレー島に松島の日本名を付した。

 1827年、アルゴノート島が存在しないことが判明しているにもかかわらず、陸軍参謀局は「亜細亜東部与地図」でアルゴノート島の位置に竹島、ダジュレー島の位置に松島を描いた。

 しかし、民間人は慣習として現在の鬱陵島を竹島と呼び、松島を松島あるいはリャンコ島、またはランコ島と呼んだ。結果として、鬱陵島を松島と書いたり竹島と書いたり混乱をきたした。

 1905年、政府は内務省訓令第87号により「北緯37度9分30秒、東経131度55分、隠岐島ヲ距ル西北85里にある島嶼」を竹島と命名した。

 間違いだけ抜き出すと以下のようになる。

  1. イギリス人が鬱陵島を測量間違いし、アルゴノート島という架空の島を作り出してしまった
  2. シーボルトがアルゴノート島に竹島、ダジュレー島に松島の名前をあてた。
  3. 1827年、アルゴノート島が存在しないことを知っていたにもかかわらず、陸軍参謀局は「亜細亜東部与地図」でシーボルトの地図と同じ位置に竹島、松島を配置する。
  4. 政府は内務省訓令第87号により、かつて松島、ホーネット島、リャンクール列岩などと呼ばれた島を竹島と名付けた。

 測量間違いによる架空の島というのは中ノ鳥島など他にも例があり、昔の人が船を動かし地図を埋めていったロマンを感じる。しかし、国境の問題の一因になる間違いはまったく面倒なものだ。

  1. 2017/06/02(金) 22:46:13|
  2. 書評 - 地図・県境・都市河川
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

時流を読むことに長けた対馬の宗家 - 有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」4

 対馬の項も面白い。国境の島らしく、宗主は時流を読む術を心得ている。

 歴史的な出来事は以下の3つが紹介されている。

  1. 元寇(文永の役、弘安の役)
  2. 秀吉の朝鮮出兵(文禄の役、慶長の役)
  3. 安政6年(1859)英国海軍アクテオン号への食料と薪水の補給と文久元年(1861)の領地換えの願い出

 有吉佐和子は特に2番目の朝鮮出兵にページを割いている。これも要約して紹介しよう。

 宗家を継いだ義智(よしとし)は天平17年大坂城で秀吉に謁見する。帰島した義智はソウルに乗り込み朝鮮王に会見し、翌年朝鮮使節を伴い京都聚楽第に参じた。その功労により秀吉からは一字を与えられ宗吉智と名乗るようになる。

 秀吉が朝鮮攻略を決し(文禄の役)、小西行長に先鋒隊長を命じて間もなく、宗吉智は小西行長の娘と結婚する。吉智は24歳であった。日本軍は朝鮮半島で暴れまわるが、明は平壌で小西行長と和平交渉を始める。しかし、冬が訪れ兵糧の欠乏により日本軍の敗戦が濃厚になる。その頃、秀吉は吉野に花見に出かけたり、伏見に城を築き始めたりと戦争中なのも忘れて浪費している。

 慶長元年、小西行長が明の使節を連れ秀吉に謁見した際、小西行長は明の皇帝神宗の璽書を文字通り読まないでくれと懇願するが、明使は「爾を封じて日本国王となす」と読み上げてしまう。逆上し使節を追い返した秀吉は家康の反対を退け、朝鮮に再び出兵する(慶長の役)。

 秀吉はまだ勝ってもいないのに宗吉智に朝鮮唐島(現在の済州島)を領地として与えるなどと伝えるが、秀吉は1年後に病死してしまう。日本軍は撤退し、宗吉智は宗義智と名前を戻してしまう。家康は宗義智に朝鮮との復交を命じるが、朝鮮に遣わした使いは捕まえられて帰ってこない。関ヶ原の戦いには参加せず、西軍についた小西行長が斬首されると妻と離婚してしまう。

 慶長10年(1605)、ようやく宗義智は朝鮮の使節を連れて伏見城に上京、家康の前で媾和の基礎を作り、大任を果たす。慶長20年に宗義智は48歳で没するが、家光の時代には対馬藩は釜山に和館を置き、朝鮮との交易を行うようになる。

 と、日本と朝鮮の間のコウモリみたいな立ち位置にありながらも、自身の利益を保つよう立ち回る様子には苦心というより器用という言葉が似合う。現代において宗家当代は対馬を離れて埼玉県にある大学教授を務めていることに、有吉佐和子は以下のように評している。

 時代というものに、まことに敏感な家系であったと言えるだろう。

有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」(集英社文庫,1984)P.168

 国境の島の処世術をよく心得た家だと思うし、そうでないと当主が務まらない島なのだろう。

  1. 2017/06/01(木) 21:16:06|
  2. 書評 - 地図・県境・都市河川
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

中国と日本を股にかけて活動した王直 - 有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」3

 長崎県五島列島の歴史は深い。教科書に載らない、地方の歴史があることを知った。実に国境の島らしい。

 有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」には以下の話が載っていた。

  1. 遣唐使の南路に位置付けられており、804年の第12回には空海と最澄が福江島を訪れている。
  2. 中国人の商人、王直が種子島を訪れる前に福江島に滞在し、五島領主盛定公から一町を与えられて拠点の一つとしていた。
  3. 長崎にフランス人が大浦天主堂を建て、信仰を強めたキリシタンが神社寺院の習慣を拒否したため、明治になってキリシタン禁制が解かれても迫害の対象となった。

 特に2番目の王直の話は大河ドラマを見るような波乱の人生である。

 安徽省歙県の出身で明暦嘉靖19年(天文9、西暦1540)巨艦を造船し、明で貿易禁止になっていた硝石や綿糸を積み、広東を中心に日本、シャム、西洋諸国と往来した。

有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」(集英社文庫,1984)P.115

 原著のワクワク感を損なわぬよう全文引用したいところだが、長いので要約する。

 天文12年7月末、王直の船がマカオに碇泊し、西洋人を3人雇う。アモイに向かう途中、海賊船に襲撃された王直は戦いを繰り広げるものの、敗走する。難破して23日間も海上を漂流した後、ようやく種子島にたどり着く。王直は砂に字を書き五島へ連絡をとってほしいと願うが通じない。やがて雇ったポルトガル人の持つ鉄砲に興味を持った種子島領主時堯は鉄砲を学ばせてほしいと依頼する。鉄砲と火薬の製造法を教授した王直は食料・薪水を積み込み出航した。これが種子島銃の元である。

 その後の運命も波乱に満ちている。1555年(弘治一)明国海軍総督は王直帰順工作を始めるが、福江の領主18代純定は取り合わない。王直の邸宅に招かれた明の使節は国賊の一族として10年投獄されていた王直の母と妻が釈放され、総督から厚遇されていること、王直が帰順すれば明の皇帝から官爵と日明通称の許可が降りると説明した。義子の汪滶が海軍総督に出向き、帰順を誓って福江に戻って来た。1557年王直は明に渡ったが捕らえられ明の世宗の命により斬首に処される。

 航海するにも危険だった頃に禁を犯して貿易を行い、東シナ海を股にかけて巨艦を動かす男は相当の桀人であろう。中国では海賊行為を働いた倭寇という悪い評価もあるようだが、大人物ゆえ毀誉褒貶あるだろう。歴史小説家が目をつけそうな人物だが、特に見当たらない。面白そうだけどなあ。

  1. 2017/05/27(土) 00:07:32|
  2. 書評 - 地図・県境・都市河川
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

屋久島の降雨量 - 有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」2

 屋久島の項について意外と思える記述があった。

 屋久島に雨が多いというのは伝説ですよ。去年は1年で40日しか雨の日がありませんでした。

(中略)

 屋久島電工の所長さんの話だった。

有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」(集英社文庫,1984)P.79, 80

 その夜は島の古老、岩川さんが宿を訪ねてくださって、いろいろ楽しい話を聞くことができた。

(中略)

 いやいや屋久島に雨が多いというのは、何かの間違いです。私が若い頃には石油カン叩いて島中で雨乞いしたことがあったくらいですから。

有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」(集英社文庫,1984)P.85, 88

 考えてみれば日本中に島はあるし、南西諸島も種子島や奄美大島など他にも島がある。そうかもしれないと思い調べてみた。しかし、年降水量が最も多い観測地点は4477mmの屋久島のようだ年降水量(平年値)ランキング

 島に住んでいる人は屋久島での経年変化を論じ、旅行者は直近の年での観測地点による違いを論じて差が生じるのだろうか。この感覚の違いは面白い。

  1. 2017/05/25(木) 20:16:39|
  2. 書評 - 地図・県境・都市河川
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」1

 有吉佐和子「日本の島々、昔と今。」を読んでいる。

 有吉佐和子が日本の離島を訪れるルポタージュである。御蔵島を舞台にした小説「海暗」を読んだことがあり、どのようなものかと古本を購入した。昭和56年4月刊行であり、このエッセイにおける「今」は35年前のことである。ある島では石油危機のあおりを受けて重油不足に陥ったり、各国の排他的経済水域の主張による乱獲の影響を受けたりなど、当時の世界情勢がわかるのも興味深い。

 取り上げているのは以下の島である。目次から抜粋しよう。

サブタイトル
焼尻島・天売島海は国境になった
種子島鉄砲とロケットの間に
屋久島20日は山に5日は海に
福江島遣唐使から養殖漁業まで
対馬元寇から韓国船まで
波照間島南の果て
与那国島西の果て、台湾が見える
隠岐潮目の中で
竹島日韓の波浪〈番外の1〉
父島はるか太平洋上に
択捉・国後・色丹・歯舞北方の激浪にゆれる島々〈番外の2〉
尖閣列島そこに石油があるからだ!〈番外の3〉

 番外と書かれた島は領土問題となっている島であり、有吉佐和子は上陸していない。その代わり、資料の残る箇所へ赴き、経緯を探っている。

 特に興味深い島については別に記事を設ける。

  1. 2017/05/25(木) 19:53:04|
  2. 書評 - 地図・県境・都市河川
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

拝島と昭島の由来

 拝島と昭島の由来についても調べてみた。

 ハイジマは「榛島」であって、多摩川河岸などの島状になっている低湿地に、榛が生い茂っていたのを「はいじま」とよんだのではないだろうか。

保坂芳春「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会,1980)P.246

 ハンノキと言われてもどんな植物か知らないが、河川敷に生える木なのだろう。八高線で多摩川を渡るあたりは河原が広く、木も多かったように思う。

 昭島については少し変わった経過をたどった合成地名だそうだ。

 昭島地域は、江戸時代は『新編武蔵風土記稿』によれば、郷地、福島、築地、大神、中神、宮沢、上河原、田中、拝島村に分かれていた。この九ヵ村が明治23年(1890)に九ヵ村組合をつくったが、明治35年(1902)に拝島村が独立してから八ヵ村組合となった。

 昭和3年(1928)この八ヵ村が合同して昭和村と改め、昭和16年(1941)町制をしいて昭和町となった。29年(1954)には拝島村と合併して市制をしいて昭和町の昭と拝島村の島をとって昭島市となったのである。

保坂芳春「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会,1980)P.241

↑昭島市の全体図

 拝島村がいったんは九ヵ村組合に加わったものの12年間で独立し、52年後に改めて合併したということになる。拝島村が独立しなかったら九ヵ村市とか昭和市とかになっていたのだろうかとか、独立・合併したのが拝島村ではなく中神村だったら昭神市になったのだろうかとか、想像が膨らむ。

  1. 2017/03/07(火) 00:01:35|
  2. 書評 - 地図・県境・都市河川
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

留浦(トズラ)という地名の語源

 川苔由来と奥多摩の似た地名 - 奥多摩民話の会編「おくたまの昔話」第二集の関連。

 保坂芳春「多摩の地名」を借りてきたのでパラパラめくっていたら、以前音が似ていると指摘した「留浦」「小留浦」「事貫」の語源が載っていた。

 留浦(トズラ)という地名は山村に多い。留浦の小字に小留浦(コトズラ)があるし、元は隣村であった氷川地内にも小留浦(コトズラ)がある。山むこうの檜原村にも事貫(コトズラ)がある。

 高山植物の権威であった武田久吉博士は、「トヅラ」は元来ツヅラフジ即ちオホツヅラフジの方言であり、それが多量に取れるところから地名となつたものに相違ない」(『民族と植物』山岡書店、107頁)とのべている。

保坂芳春「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会,1980)P.42-43

↑バスの終着の1つでもある旧小河内村の留浦

 植物の名前から取っているのは納得である。

170130tsudurafuji.png

↑ツヅラフジでGoogle画像検索した結果

 オオツヅラフジ(大葛藤、Sinomenium acutum、シノニム:Cocculus acutus)とは、ツヅラフジ科ツヅラフジ属のつる性木本。有毒の植物で、別名ツヅラフジ(葛藤)ともよばれる。

オオツヅラフジ - Wikipedia

 ツヅラフジがどんな植物かわからないのでGoogleで画像検索してみたが、葉っぱの形も葉っぱの厚さもまちまちでつる植物ということくらいしか共通点が見当たらない。こんな植物、里山によく生えていそうだが、毒だというからちょっと驚きだ。

  1. 2017/03/06(月) 23:45:15|
  2. 書評 - 地図・県境・都市河川
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

奥多摩にある大丹波、小丹波の由来

 川苔由来と奥多摩の似た地名 - 奥多摩民話の会編「おくたまの昔話」第二集の関連。

 以前離れたところにある同じ地名「丹波」について不思議に思っていたが、保坂芳春「多摩の地名」をの多摩の語源の項で、説明があった。

「駄馬、または〜駄馬(何々駄馬という地名。著者)は、南予・西土佐にかけて数多く見られる地名群落である。この地名は山中もしくは谷中のちょっとした平坦地、あるいは緩斜地に付けられているが、尾根筋つまり山頂の平坦地などにもつけられている。海沿いの平坦地にもあるので平坦地を第一義とする言葉である」(山口恵一郎氏『地名を考える』115頁)といわれる。

(中略)

 奥多摩町には大丹波、小丹波集落があり、多摩川上流山梨県に越えると丹波山村がある。それらの村々は、山間の狭い平坦地を生活の場とするタバ集落である。

保坂芳春「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会,1980)P.18

↑赤杭尾根を挟んで北にある大丹波、南にある小丹波

 音で「タバ」と言われても平坦地のイメージはないし、他に平坦地でタバと呼ぶところは知らない。山中の平坦地なんて奥多摩と檜原の人が住んでいる場所すべてが対象になりそうだ。そういうものと覚えるしかないのだろうか。

  1. 2017/03/05(日) 00:03:51|
  2. 書評 - 地図・県境・都市河川
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ