山ノ中ニ有リblog

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「水木しげるの遠野物語」

「水木しげるの遠野物語」を読んだ。

 妖怪を描く水木しげると民俗学の大家、柳田國男の組み合わせとあってどんなもんかと手に取った。一言で表現すると遠野物語を基にした水木しげるのエッセイといったところだろうか。単に遠野物語を漫画にするのではなく、遠野を訪れた水木しげるが語り部として登場する。各話はごく短く、第52話のように2コマで馬追い鳥の鳴き声の由来を紹介するものもある。

 最後の第29回では水木しげるが夢の中で柳田國男と会って会話する。水木しげるが遠野への関心を述べ、柳田國男は賛意を述べる。「『遠野物語』の時代にはいろいろな妖怪が出てきてオモチロイね」と笑い飛ばしたところで夢が覚める。あえて額縁をぼかし、どこまでが遠野物語の話でどこからが水木氏の感想なのかわからないあたりがエッセイっぽい。手元に原著の遠野物語がないので対応まではわからない。

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↑63話マヨイガ

 圧倒的な写実力で描く緻密な風景や人物の躍動感はとても88歳の老人の手によるものとは思えない。ましてや片腕というのだから驚きだ。

 ていねいに遠野物語の筋を追ったものではないので、興味を持ったら原著の遠野物語に当たるといい。入り口としてよい漫画だろう。

  1. 2017/03/30(木) 00:16:42|
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岩田基嗣「改訂版 異説 多摩川上流水源地の歴史」を読んだ

 岩田基嗣「改訂版 異説 多摩川上流水源地の歴史」を読んだ。

 職場で借りた本である。「第一章 東京市による水源林の経営まで」で総論的な水源林の歴史を述べ、第2章で源流の一ノ瀬・高橋集落、第3章で天然林伐採の歴史、と個別的な話題を掘り下げて論述している。「異説」とあるようにどちらかというと歴史の裏話みたいな話が多い。

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 神奈川県から東京府への三多摩の移管は東京府による水源の一体的管理が表立った理由とされているが、帝国議会における自由党の分断を図ったためなどとややきな臭い話が載っている。

 政府は自由党発祥以来の最大最強の地盤である三多摩を改進党の強い東京府に編入することによって自由党勢力の減殺をはかったのである。軍備大増強を阻もうとする自由党の存在は、政府にとって最大の障害であった。

岩田基嗣「改訂版 異説 多摩川上流水源地の歴史」(西多摩新聞社,2014)P.29

 他にも皇室の所有する御料林を東京府が譲り受ける際、御料局長との交渉にあたった林学者本多静六博士は台帳の面積から算出した1782円で譲り受けることと約束している話が紹介されている。本多は金額について口約束を結んだ後、知事に報告する。実面積が台帳の10倍以上であることに気づいた御料局長は實際面積でなければ困る(P45)と再交渉を持ちかけるが、本多は以下のように切り返す。

 今更それができないと云われては、自分は切腹するより外ありません。あなたは私に詰腹を切らすのですか、と迫りますと、長官は顔色を變へて、沈黙暫くあって、丁と机を打って、いやよく解りました。

岩田基嗣「改訂版 異説 多摩川上流水源地の歴史」(西多摩新聞社,2014)P.45, 46

 なんかえらい強引だなと思うが、本多の回想録によるものなので大分話を大げさにしているのかもしれない。本多は手に入れた御料林のうち、泉水谷で植林を開始する。しかし、塩山まで遠く搬出困難なため採算が取れず、製炭にに切り替えるも雪と寒さが厳しいために逃げ出す製炭夫が続出する。このため筆者は水源林経営は失敗と断じている。裂石から丸川峠まで簡易索道が設置されていたというのは登山者として興味深い。

 第2章「見捨てられた源流の村 一ノ瀬・高橋」は一ノ瀬・高橋集落が萩原十ヶ村の枝郷としてないがしろにされた話、第3章「天然林伐採の歴史」は日本深山開発株式会社による奥後青岩谷、泉水谷での伐採、飛田勝造による小河内ダムの人夫確保問題を取り上げている。

 以降は以下のような個別の話題である。

 筆者は1950年(昭和25年)に水源林事務所の臨時職員として就職し、1990年(平成2年)に東京都水道局水源管理事務所を退職している。その割に立場はむしろ虐げられた住民寄りの視点で描かれている。

 前書のあとがきでも述べたが、多摩川上流山梨県分の64%が東京市(都)有林で有ることから、特に戦前においては為政者側の視点に立った歴史が語られてきたように思う。そこには、どうしても為政者に都合の悪い部分は省かれるか、カモフラージュされた。本書は前書を読み直し、前書で省略した五・六・七章を加えてそのあたりを明らかにしようと試みたものである。

岩田基嗣「改訂版 異説 多摩川上流水源地の歴史」(西多摩新聞社,2014)P.12

 立場があると告発に似た居心地の悪さがあるように思うが、地元の人たちとの格差に不条理を覚えこのような立場に至ったそうだ。

「異説」だけに内容が深く、前提としての水源林の歴史をある程度知らないとわからない内容が多かった。また、漢字の多い原典の引用も多く、正直すっ飛ばしたページも多い。郷土研究の一環なので初心者に難しく感じるのは仕方ないのだろう。

  1. 2017/02/28(火) 00:06:23|
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巻機山の名前の由来

 巻機山の名前を初めて知った時はなんと読むのだろう、と思った。読み方を知った後もなんでこれで「まきはた」と読むのだろうと不思議に思った。何度か登った今では「まきはたやま」以外の読み方が思い浮かばない。

 そんな巻機山だが、さぞかし変わった由来があるのだろう、と思いきや深田久弥「日本百名山」でははっきりしない。

 巻機山は機の神様である巻機さんを祀ってあると聞いたことがあるが、さだかでない。養蚕に関係があるのかもしれない。ともあれ『北越雪譜』にもその前衛の名が出ているくらいだから、昔から魚沼郡では知られていた山に違いない。

深田久弥「日本百名山」(新潮文庫,1986)P.128-129
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↑巻機山山頂の池塘(2010年秋 - 上越・巻機山井戸尾根

 柳田國男「日本の伝説」には機織り御前の項に巻機山の由来が書いてあった。

 越後の山奥の大木六という村には、村長で神主をしていた細矢という非常な旧家があって、、その主人がまた代々すがめでありました。昔この家の先祖の弥右衛門という人が、ある夏の日に国境の山へ狩りに行って路を踏み迷い、今の巻機山に登ってしまいました。この山は樹木深く茂り薬草が多く、近い頃までも神の山といって、おそれて人のはいらぬ山でありましたが、弥右衛門はこの深山の中で、世にも美しいお姫様の機を巻いているのを見かけたのであります。驚いて立ってみると、向うから言葉をかけて、ここは人間が来れば帰ることの出来ぬ所であるが、その方は仕合せ者で、縁あってわが姿を見た。それでこれから里に下って、永く一村の鎮守として祀られようと思う。急いでわれを負うて山を降りて行け、そうして必ず後を見返ってはならぬといわれました。仰せの通りにして帰って来る途中、約束に背いて思わずただ一度だけ、首を右へ曲げて背中の神様を見ようとしますと、忽ちすがめとなってしまって、それから以降この家へ生れる男子は、悉く一方の目が細いということでありました。今でもそういうことがあるかどうか、私は行って尋ねて見たいと思っています。(越後野志と温故之栞。新潟県南魚沼郡中之島村大木六)

柳田國男「日本の伝説」(新潮文庫,1987)P.72

 清水峠から流れる登川が魚野川と合流する少し手前の左岸に大木六という地名が残っているので、きっとここの話であろう。昔は人の入らぬ山であったというのがちょっと意外である。三国川流域や国境稜線を越えた利根川源流にも沢の名前が付いていることから猟師は分け入っていたと考えられるからだ。巻機山の由来は「美しいお姫様が機を巻いている」というおおざっぱな説明に終わっている。もう少し記述があってほしかった。振り返ってはいけないという禁を犯す話も洋の東西を問わずある話だ。

 分かったような分からないような、いかにも伝説らしい説得の仕方だと思う。

  1. 2015/09/26(土) 01:06:12|
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信濃、越後、越中の三国境を決める話 - 柳田國男「日本の伝説」

 柳田國男「日本の伝説」に信濃、越後、越中の三国境を決める話が出ていた。

 これとよく似た言い伝えが、また信州にもありました。信州では、諏訪大明神が国堺を御きめなされるために、安曇郡を通って越後の強清水というところまで行かれますと、そこへ越後の弥彦権現がお出向きになって、ここまで信濃にはいられては、あまり越後が狭くなるから、いま少し上の方を堺にしようという御相談になり、白池というところまでもどって堺を立てられました。それから西へ廻って越中の館山権現、加賀の白山権現ともお出あいなされて、つごう三箇所の境がきまり、それから後は7年に1度ずつ、諏訪から内鎌というものが来て、堺目にしるしを立てたということであります。(信府統記)

柳田國男「日本の伝説」(新潮文庫,1987)P.95

 この国境を決める話は長野県の霊仙峰のあたりを通ったときに調べて読んだことがある。「一番鶏が鳴くと同時に峠道を登り始めてお互いに会ったところを境界とする、という説」だが、他の国境でも同じようなことをしているのは知らなかった。

 上の信濃、越後、越中の三国境については現在でも三国境というわかりやすい名前の山があり、現在は三国境が長野、新潟、富山の三県境になっている。

 この白池というところは探してみたら、三国境とは別で雨飾山のふもと、糸魚川市と小谷村の境界未確定の箇所にあった。

↑糸魚川市の白池

 白池のほとりにある古いほこらの説明文によると、古くは白池の中心が信越国境で、ここで「薙鎌打ち神事」があったという。糸魚川市史などをひもとくと、元禄時代に起きた国境紛争を持ち出したのは越後側で、白池の水利権なども絡んでいたようだ。幕府裁定の結果、白池は信濃領となり、その後も定期的に役人が確認のために訪れたという。

 ところが、明治維新後、敗訴した越後側が異議を申し立てて未確定となり、今に至っているという。

<塩の道>塩の道:信越県境空白域で神事 交流深め未来へ 糸魚川と長野・小谷 /新潟 - 毎日新聞

 周辺は谷が発達しておらず、小さな山があったり、池があったりして分水嶺がわかりにくい。神様同士が話し合ったとするなら、池という目印で平地の方がイメージが湧きやすい。昔の人は星座を考えたり、想像力が豊かなものだ。

  1. 2015/09/25(金) 01:08:55|
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石をむやみに拾ってくるなという教え - 柳田國男「日本の伝説」

 柳田國男「日本の伝説」の袂石の項は、成長する石を扱っている。伊勢などの吉方から持ってきた石が成長するという話だ。ありがたがって社を建てて祭ったりすると、石が成長するため社が狭くなり、建て替えるということだ。その流れで以下のような記述があった。

 やたらに外から小石を持ってくることを嫌っている家は今でも方々にあります。川原から赤い石を持ってくると火にたたるといったり、白い筋のはいった小石を親しばり石といって、それを家に入れると親が病気になるなどといったのも、つまり子供などのそれを大切にすることも出来ない者が、祀ったり拝んだりする人の真似をすることを戒めるためにそういったものかと思います。

柳田國男「日本の伝説」(新潮文庫,1987)P.106

 成長する石を祀る人もいる一方、子供は石を拾ってきても大切しない。子供が軽々しく石を拾ってくるのは石を拝んでいる人に失礼だ、ということらしい。

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↑大井川の河原(2015年夏 - 南アルプス・大井川東俣[3/4]

 そういや、武甲山かどこかで白っぽい石を拾ってきたとき、親から「そういう石は貧乏石といってあんまり拾わない」と言われたことがある。貧乏人が白い石を見つけて、金のように価値のある物と思って拾ってくる、という意味かと思っていた。遠因にはあんまり石を粗末にするな、という戒めの意味があるのかもしれない。

  1. 2015/09/08(火) 01:01:45|
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片目の魚にまつわる話

 柳田國男「日本の伝説」に片目の魚の話が載っていた。

 この次ぎには子供とは関係はありませんが、池の伝説の序でに片目の魚の話を少ししてみましょう。どうして魚類に一つしか眼がないのができたものか。まだ私たちにもほんとうのわけはよくわかりませんが、そういう魚のいるのは大抵はお寺の前の池、または神社の脇にある清水です。東京に一番近い所では上高井戸の医王寺、ここの薬師様には眼の悪い人がよくお参りをしに来ますが、その折にはいつも一尾の川魚を持ってきて、お堂の前にある小さな池に放すそうです。そうするといつの間にか、その魚は片目をなくしているといいます。夏の頃出水の際などに、池の下流の小さな川で、片目の魚をすくうことが折々ありますが、そんなときにはこれはお薬師様の魚だといって、必ずこの池に持ってきて放したということです。(豊多摩郡誌。東京府豊多摩郡高井戸村上高井戸)

柳田國男「日本の伝説」(新潮文庫,1987)P.51
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 他にもたくさん片目の魚の話が載っている。魚が片目になった理由が書かれた話を挙げると、

 例えば下野上三川の城址の濠の魚は、一尾残らず眼が一つでありますが、これは慶長2年の5月にこの城が攻め落とされた時、城主今泉但馬守の美しい姫が、懐剣で眼をついて外堀に身を投げて死んだ。その因縁によって今でもその水に入る魚が片目だというのであります。

柳田國男「日本の伝説」(新潮文庫,1987)P.54

 そこでなお多くの因縁の例を挙げてみると、福島の市の近くの矢野目村の片目清水という池では、鎌倉権五郎景政が戦場で眼を傷つけ、この池にきて傷を洗った。その時池が流れて清水に混じったので、それで池に住む小魚はどれもこれも左の眼が潰れている。

柳田國男「日本の伝説」(新潮文庫,1987)P.55

 昔一人の馬方が馬に茶臼を附けて、池の堤を通っていて水に落ちて死んだ。その馬方がすがめの男であった故に、それが鰻になって、また片目であるという話であります。

柳田國男「日本の伝説」(新潮文庫,1987)P.56

 と理由も様々である。実際に片目の魚を見たことがないので、そんなにいるものなのか分からない。これだけ話が残っているとすると、単に同じ話が人の移動で伝わっていったというより、人間の深層意識に片目に対する畏怖の念みたいなのがあったんじゃないかと考える。柳田國男はそのへんをもやもやと説明している。

 何にもせよ、目が一つしかないということは、不思議なもの、またおそるべきもののしるしでありました。奥州の方では、一つまなぐ、東京では一つ目小僧などといって、顔の真ん中に眼の一つもあるお化けを想像するようになったのもそのためですが、最初日本では、片目の鮒のように、二つある目の片方が潰れたもの、ことにわざわざ二つの目を、一つ目にした力のもとを、恐れもし、また貴みもしていたのであります。

柳田國男「日本の伝説」(新潮文庫,1987)P.65

 現象のまとめであって理由は説明していないが、当時失われつつあった伝説を集めただけでも功績は十分すぎるだろうし、考察は後世の人に委ねられているのかもしれない。

 目は五感の中でも特に平常時に使用する器官だから、片目だとその目で一般の人に見えないものが見えている、それが畏怖の念につながったのだろうか。

  1. 2015/09/02(水) 00:12:23|
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塩が取れた会津の大塩 - 柳田國男「日本の伝説」

 会津の大塩では塩が取れたそうだ。

 会津の大塩という村では山の中の泉を汲んで、近い頃まではそれを釜で煮て塩を製していました。こういう奥山に塩の井が出るというのは、土地の人たちにも不思議なことでした。それでやはり弘法大師がやって来て、貴い術をもって塩を呼んで下されたといっていますが、これにはまたどういう女があって関係したものか、今ではもう忘れてしまったものが多いようであります。(半日閑話。福島県耶麻郡大塩村)

柳田國男「日本の伝説」(新潮文庫,1987)P.41
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↑会津檜枝岐の林道

 山で塩が取れるところというと、伊那の鹿塩温泉が有名だ。たばこと塩の博物館にも展示がある。他にもそんなところがあったのかと驚いた。しかし、「会津 大塩」で検索しても温泉の記事しか見当たらない。炭酸の入った温泉でナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉温泉ガイド - 金山町ホームページ)らしいので少しはしょっぱいのかもしれない。

 只見線の不通区間にあり、相当に山奥である。只見線が動いていたら一度は列車の旅をしてみたかった。

  1. 2015/08/31(月) 00:08:22|
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掛け声で泡の出る池 - 柳田國男「日本の伝説」

 柳田國男「日本の伝説」を読んでいる。そこに驚き清水という項があった。

 越後の蓮華寺村の姨が井という古井戸などもその1つで、そこでも人が井戸のそばに近寄って、大きな声でおばと呼ぶと、忽ち井戸の底からしきりに泡が浮かんで来て、ちょうどその声に答えるようであるといいました。

柳田國男「日本の伝説」(新潮文庫,1987)P.23
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 そんな池あるかい、と読みながら思ったが、他にも越後の曽地峠、伊勢崎の書上原などにあり、他にも有馬温泉には悪口を言うと湧き上がる温泉、那須には「教伝甲斐ない」とどなると湯が湧く温泉などがあるという。熱海の平左衛門湯については間歇泉であろうと柳田國男が推定している。他の理由として

 実地に行ってみないと確かなことは知れませんが、大抵は周囲の土が柔かで、足踏みの力が水に響いたのではないかと思います。

柳田國男「日本の伝説」(新潮文庫,1987)P.27-28

 と説を唱えている。これもちょっと考えにくい。気密性のある土なんて想像できない。この本は初版が昭和15年と古いのでそういう考えもあったのだろう。

 となると、やっぱり間歇泉くらいしか説明できる要因がない。本当に現在でもそんな池があるのだろうか。

  1. 2015/08/28(金) 21:46:28|
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真に感動するものに理屈はいらない - 「パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」

 文化の相対性 - 「パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」の続き

 日が美しく輝けば、彼らはすぐに考える。「日はいま、なんと美しく輝いていることか!」彼らは切れ目なく考える。「日はいま、なんと美しく輝いていることか!」これはまちがいだ。大まちがいだ。馬鹿げている。なぜなら、日が照れば何も考えないのがずっといい。かしこいサモア人なら、暖かい光の中で手足を伸ばし、何も考えない。頭だけでなく、手も足も、腿も、腹も、からだ全部で光りを楽しむ。

「パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」(学研,1981)P.125-126

 山のよさも同じような気がする。山で見る日の出や雪面に広がる風紋、見上げるほどに大きな滝は、見る者を感動させる。しかし、それを文章にしたところでその感動をすべて伝えるということはできない。感動した風景をカメラに収めても意外と感動が伝わらないことがある。

 ほおに当たる風の冷たさ、一切の静けさ、瀑布の音、日の出を待つ期待感、そこまで歩いてきた苦労など、さまざまな付帯条件があってこその感動である。

 真に感動するものに理屈はいらないと思う。


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文化の相対性 - 「パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」

 時間について - 「パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」の続き。

 私たちはさらに誓いを立て、彼らに呼びかけよう。私たちに近づくな。おまえたちの喜びと快楽を持って私たちに近づくな。腕にも、頭にも富を求め、かき集めてきた野蛮な掠奪物を持って私たちに近づくな。兄弟よりも豊かであろうとする貪欲さ、たくさんの無意味な行い、むやみやたらに手を動かすものづくり、好奇心だけでものを考えて、なんにも知らない知識、そういうがらくたを持って私たちに近寄るな。

「パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」(学研,1981)P.143

 先に記したように西洋人はサモア人に光りをもたらすためにキリスト教を教えに来たわけだが、そのサモア人からこのように拒絶されてしまうというのは一神教の考えからすればあまりにも異端であろう。

 しかし、文化は相対的であると思えば「私が正しくて、あなたが間違っている」という言い分はお互いに主張できるだろう。

 レヴィ=ストロースの論を体現した主張だと思う。


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