島ノ中ニ有リblog

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藻が繁茂していたという卜伝の湯

 前穂高岳北尾根3峰まで登ってきた帰りのこと。釜トンネルの入り口で松本行きのバスを待っていたら対岸に道具置きみたいな小屋があるのに気づいた。よく見ると「卜伝の湯」と看板がかかっている。受付は別にあるみたいで「中の湯売店にご連絡ください」と書かれていた。

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↑中の湯バス停近くにある卜伝の湯(2016年冬 - 北アルプス・前穂高岳北尾根3峰[4/4]

 その卜伝の湯を西丸震哉が取り上げていた。

 石だかコンクリだかで固めた長方形の湯だまりで少し熱めだがまあ適温、ただしここで入浴する気になった人はおそらくいなかったと思う。この湯の内側には30センチもの暑さに緑色のブヨブヨの苔だか藻だかが繁茂していて、体を沈めていくとグヤグヤブクブクヌラヌラと気泡を立てながら全身を抱き込んでいくのだ。これはかなりイヤな感触であった。

西丸震哉「西丸式山遊記」(中公文庫,2000)P.309-310

 と、あんまりいい心地ではなかったようだ。しかし、

 この湯も完全に思い出の中だけのものになってしまった。

西丸震哉「西丸式山遊記」(中公文庫,2000)P.310

 と文章を閉じているから梓川の流れが変わったりして今は違う温泉なのかもしれない。それに生えている藻をそのままにしていたら不衛生で保健所に怒られそうだ。

  1. 2017/08/04(金) 20:45:37|
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秋山郷の上流に出る幽霊の話

 秋山郷の上流、渋沢ダムのあたりは幽霊が出るそうだ。

 西丸震哉が和山温泉に泊まったときに宿の先代のバアサンが体験したという話が「西丸式山遊記」に載っていた。

 おそらく半世紀以上も前のことだろうが、下流の穴藤にある発電所建設のとき、強制労働をさせられていた朝鮮人が、よく脱走してきて、握り飯をもたせてやったそうだ。下流に脱走するとすぐ捕まって、またタコ部屋へ放り込まれ、ますます死を早めるので、みんな上流へ逃げたという。和山から魚野川をつめて、野反池の手前で700mの尾根の直登をすることになるが、もともと身体をいためつけられているために体力が尽きてこの上りの途中でほとんどが死体をさらしたそうだ。

 営林署の職員がこの山中で野宿をすると、朝鮮語で一晩じゅうメンメンと語りかけられるというから、まだ浮かばれない魂がひしめいているのだろう。

西丸震哉「西丸式山遊記」(中公文庫,2000)P.256
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↑荒廃した営林小屋

 ちょうど、2年前に魚野川を遡行するときに渋沢ダムの避難小屋に泊まったのでちょっと驚いた。渋沢ダムのほとりには荒廃した営林小屋もあり、野反湖からの道も長く、話は生々しい。幸い、私は幽霊を見ていないので幽霊が成仏したか、私の霊感が足りないのだろう。

  1. 2017/08/03(木) 22:41:32|
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西丸震哉「西丸式山遊記」にある岩塔ヶ原の記述

 西丸震哉「西丸式山遊記」を読んでいる。

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↑西丸震哉「西丸式山遊記」

 2001年に「尾瀬 岩塔ヶ原について」という2chのスレがあった。立入禁止の理由やガイドブックに載っていない理由、果てはおろくが眠っているとかサンカの神殿があるとかいろんな憶測が飛び交っていて探検に興味のある人には実に面白い議論が交わされていた。しかし、所詮は雑談、結論が出ることはなく、憶測の提示に終わっている。

 スレでは原著として「西丸震哉の日本百山」(実業乃日本社刊、1998)が紹介されているが、「西丸式山遊記」にも岩塔ヶ原について触れられている。5万分の1地形図の沢筋谷筋がデタラメだと指摘した後に氏は語る。

 藤原図幅の中の、利根川流域に隣接する尾瀬ヶ原の西北部に、15平方キロにわたって、地形図と現実とがまるっきりズレている部分を発見した。

 景鶴山、大白沢山、ススケ峰、日崎山、1811m峰(八海山)が囲む四辺形内がそれで、この中央部にある3つの沢の合流点あたりの盆地は、地図のミスのおかげでこの世の盲点になってしまっているのだ。

西丸震哉「西丸式山遊記」(中公文庫,2000)P.79

 猫又川右俣は外田代で三股になっており、氏はそこを岩塔ヶ原と名付けている。

 この合流点の近くに、非常に不自然な岩塔状のものがニョッキリと立っているのがすごく気になった。火口原とみられるかなり平らな盆地の中に熔岩塔が立っているはずがない。こんな異様なものが一体何なのかは、4万分の1の写真では判別できないので早速現物を見に行くことにした。

 山の鼻から猫川(猫又川)をつめて行き、右俣・左俣と名付けた沢の二分するところでキャムプ。右俣を忠実につめて仮空の場所、三股をすぎて沢の中を歩いていくと、右側が拡がった地形に出たので沢から上ってみると、ヤブと森林に囲まれた湿原がつながっていた。湿原と沢との間に岩塔があるはずのところだ。しかしそんなものはどこにもない。小さな丘に黒木のきわ立って高い大木がびっしりと立ったもの、これが岩塔に見えたにすぎなかった。

夢を描かせてくれた目的物の名前はそのままに残して、この湿原には岩塔ヶ原と名付けこの周辺4平方キロの盆地を岩塔盆地と名付けることになった。

西丸震哉「西丸式山遊記」(中公文庫,2000)P.80

 残念ながら上のスレで上がっているような怪しい噂の元となる記述は見当たらなかった。しかし、近くの景鶴山も含めて現在は入山禁止のようなので、地図や航空写真を見て思いをはせるしかないのだろう。

  1. 2017/07/06(木) 20:12:50|
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沢木耕太郎「凍」

 沢木耕太郎「凍」を読んだ。

 山野井泰史・妙子夫妻のギャチュンカン北壁第2登とその脱出行を描いたノンフィクション。

 沢木耕太郎という作家は深夜特急という小説で有名だとは知っていたが、海外にあまり興味を持たない私は読む気もなかった。ただ「凍」という作品は山岳を題材としていたので題名は知っていた。いずれ読もうと思っていて入手したので読んでみた。

 ギャチュンカンはエヴェレストとチョー・オユーの間にある7952mの山。山野井泰史氏があまり目立たない山を目指した理由は、ギャチュンカン北壁を初登したスロヴェニア隊のシュトレムフェリの言葉であった。

 自分たちが登ったノース・フェイス、つまり北壁も悪くなかったが、未踏のイーストフェイス、東側の壁もかなり面白そうだった、と。

沢木耕太郎「凍」(新潮文庫,2008)P.19

 実際には東壁は雪崩の巣であり、次に選んだ北東壁も雪崩の恐れがあり、北壁に妙子夫人と登ることにする。計画はベースキャンプから登り2泊、下り2泊の4泊5日、それに予備日1日をつけて6日間の予定であった。

 4日目、体調のすぐれない妙子夫人は途中でテントに戻り、泰史氏が単独でギャチュンカンに登頂する。5日目から下降を開始するが、夕方にたどり着いたテラスは雪を削り出した10cm足らずの谷に向かって傾斜したものであった。テントは張れず、2人はそこに腰掛けて夜を過ごす。さらに6日目はテラスがなく、ロープでブランコを作り夜明けを待つ。高山病のためほとんど飲み食いのできない妙子夫人、過酷なビバークによる凍傷、雪崩による妙子夫人の滑落、やはり高山病のため見えなくなる2人の目と、数々の困難が立ちはだかる。9日目、やっとのことで2人はベースキャンプに帰り着く。

 このノンフィクションの面白さは登頂よりも下山の脱出行にあると思う。比較的予定通りの登りより、体の故障や雪崩といった条件で生きるか死ぬかの精神状態を細かに描写している。3日目泰史氏が凍傷になっても妙子夫人が食事を受け付けなくなってもパニックには陥っていない。しかし、6日目に滑落した妙子夫人のところにたどり着いた泰史氏は瀕死であった。

 午前零時過ぎ、妙子のところに降りたときはすべての精力を使い果たしていた。もうエネルギーのひとかけらも残っていなかった。神経を使い、体力を使い果たした。自分には心臓が鼓動を打つ力も残っていないように思えた。

「ああ、心臓が止まる、止まる……」

 妙子に言った。

(中略)

「背中を、背中をたたいてくれ……」

 心臓にショックを与えないと鼓動が止まりそうに思えたのだ。

 どこでもいいから座りたかった。しかしどこにも座れない。もう自分は本当に死ぬのかと思った。

沢木耕太郎「凍」(新潮文庫,2008)P.241

 自身は登っていないにもかかわらず、これほどの描写を引き出せる作家は素直にすごいと思う。メディアに露出する必要のない山野井氏は、作家の取材を受ける必要もないはずだが、氏と信頼関係を築き、終章ではギャチュンカンのベースキャンプ再訪に同行させてもらうほどの間柄になっている。

 井上靖の氷壁もそうだが、登攀しない作家が登攀する人を対象に小説を書くって相当に大変だと思うが、それに見合う文学的価値があるのだろう。

  1. 2016/12/23(金) 10:37:03|
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連合赤軍が小袖川にベースを置いていた

 山本直樹「レッド」の関連。

 山本直樹「レッド」第3巻を読んだ。

 マンガ「レッド」2巻末では街中での警察からの逃亡に疲れた赤城が「このままビクビクおびえたままで武装闘争なんてやっていけるの?」とぼやく。それを見た谷川が「山を根拠地に使えるんじゃないか?」と提案する。

 第3巻では探した結果、奥多摩の小袖川にベースを構えることになる。ここでメンバーの脱走に端を発するリンチが始まり、ベースを転々としていくことになる。小袖ベースという単語でGoogleで調べるといくつかヒットする。

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↑小袖川沿いの平らなところ(2005年夏 - 奥多摩・小袖川

 小袖川という単語だと釣り師や沢登りのサイトばかりがあたるし、2005年に私も歩いたときは県境で初級の沢ということしか知らなかった。私はその後県境歩きで通った軽井沢付近があさま山荘事件の舞台と知って初めて連合赤軍について調べたのであった。そしてこの小袖川がまた東京都と山梨県の県境に当たる。

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↑銃を撃つ練習をした小袖鍾乳洞の入口(2005年夏 - 奥多摩・小袖川

 連合赤軍もまた県境であれば追っ手も来にくいと考えたのだろうか。どうも県境縦走をすると期せずして連合赤軍の舞台をめぐってしまうようで変な縁がある。

  1. 2016/10/18(火) 00:48:34|
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芳野満彦「新編 山靴の音」と吉尾弘「垂直に挑む」を比べて読む

 芳野満彦「新編 山靴の音」吉尾弘「垂直に挑む」を対比して読むと面白い。

 両氏はいくつかの山で同行している。2つの本を参照すると以下の3つが該当する。

 いずれも初登攀を成し遂げた登攀であり、奇しくも全て昭和33年である。当時芳野氏27歳、吉尾氏21歳ということになる。

 そもそもアルムクラブの芳野氏と朝霧山岳会の吉尾氏がなぜ一緒に山に登るようになったのか。同行のきっかけは北岳バットレス中央稜初登攀を狙う複数のパーティーがいたことである。無雪期に中央稜にザイルをフィックスしたものがあるという噂が流れ、いかに他パーティーに先んじるかをそれぞれが策を練っていたところ、日本山嶺クラブの奥山章氏のつてで合同で登ることになったそうだ。

 だいたい、吉尾氏が感情的な、芳野氏があっさりとした記述をしている。北岳バットレス中央稜第3ピッチ、第4ピッチにてそれぞれ以下のように書いている。

 しばらく辛抱していると、奥山さんと小板橋君が確保位置を改め、四番の芳野氏を確保し始めたようだ。(中略)

「小板橋くーん。どうしたんだ。登ってきてくれ。セーターだけなんだ。我慢できないよー。ザックだけでも上げてくれ。たのむ。たのむー」(中略)

 私は少しでもバランスをよくするため、一枚でも薄着をして、たとえわずかでも登攀の可能性を高めようと、ヤッケも来ていなかった。(中略)

 しかし、芳野氏はもっと大変だったのだ。その原因は彼の切断された足にあった。第一のオーバーハングを乗り越そうとしてアブミに乗った瞬間、踵しかない足でつま先をかけて乗ったために靴が脱げてしまったのだ。彼は第三ピッチをオーバーシューズの中に靴をぶら下げたままで登ってきた。

吉尾弘「垂直に挑む」(中公文庫,1980)P.52, 53

 第三ピッチには三番の奥山兄まではスムースに行ったが、四番の僕になり急にピッチは鈍ってきた。荷が重すぎたのと、アブミが踏み切れず何度も失敗し、やっと空身になり五番に荷をあずけて、ハングを乗越えた。が、アブミを踏み切る瞬間にアイゼンが残り、ナイロンの靴紐がとけて靴が脱げそうになった。オーバーシューの細ヒモだけで足についている状態だった。時間の消費とトップ二番を寒気に追いやり、三番の奥山兄は長時間の確保のため、きわめて小さなスタンスに無理に立っていたので、軽い凍傷にやられた。

芳野満彦「新編 山靴の音」(中公文庫,1981)P.94, 95

 また、剱岳チンネ正面壁にアタックする日のこと。テントで起床したときの気まずい様子はそれぞれ以下のように書いている。

「おい、起きろ」(中略)

 いやに眠いので時計を見ると、まだ午後8時(9日)である。罪なことをするものだと、さすがに私もむっとして聞いてみた。

「出発は午前1時のはずなのに、まだ5時間もある。時計を見たのですか」

「お前らがいつもモタモタしているからだ。今から準備しなければ間に合わない。田中、お前すぐ食事の支度をしろ」

 田中が羽根だらけのシュラーフから、のそのそと熊のように這い出してきた。私は芳野氏に対して我慢できなくなっていた。その気配を敏感に感じ取った田中に肩を押さえられた。

「我慢しろよ。トラブルは起こすな。アタックがすめば帰りじゃないか」(中略)

 アタックの装備についてもトラブルがあった。私はチンネを登るために軽装を主張したのだ。芳野氏はツェルト、コンロなど通常の装備の他にシュラーフカバーやら、その他ビバーク補助用具を持参するといって聞かない。彼は常にビバークを考えている。私は夜中でも下降する方が好きなのだ。山の登り方が違っていたのだ。結局、田中がキスリングを背負い、持参することになった。

吉尾弘「垂直に挑む」(中公文庫,1980)P.74

 起床は夜の十時ということになっていたが、僕はもう、夕方五時には空腹とアタックの興奮のため眼が覚めてしまった、というより眼がさえてしまったのだ。吉尾君も田中君も、冬眠中の熊のように寝ている。シュラーフをゾロメキで焦がしているので、まるで鳥小屋に寝ているようなミジメな姿で時の経つのを待った。ベンチレーターから冷え冷えとした外気とともに星の煌めきが眼に入った。もう夜になったのだ。吉尾、田中両君をゆり起す。出発予定の十二時までまだ五時間もある。出発準備にはありあまる時間であったが、けっこう食べたり飲んだりいそがしかった。アタック用の食料や三ツ道具などを分担し、ザックに詰めてみるが、とてもサブザックでは入りきらない。田中君にはご苦労だが大ザックを背負ってもらう。

芳野満彦「新編 山靴の音」(中公文庫,1981)P.106

 異なる山岳部の人間が一緒に山に登る際は文化の違いを強く感じさせる。高校、大学、社会人と3つの登山系の部に所属してきた私にもわかる。道具の呼び方ひとつとっても巻き紙、トレペ、トイレットペーパーないし紙と異なる。

 特に吉尾氏より芳野氏の方が年上なので対立する事項があると主導権は芳野氏にあったのだろう。吉尾氏は穂高岳屏風岩中央カンテの項で以下のように書いている。

 私はチンネの登攀以来、がっちり彼に行動の主導権を握られている。今回は特に対等な立場でザイルを結びたいと欲していたので、その布石の一つのつもりだった。

吉尾弘「垂直に挑む」(中公文庫,1980)P.113

 双方の本には上記の3つの山行以降同行したという記述はない。お互い数々の初登攀を成し遂げるほど強固な意志と強烈な個性を持つ登山者であり、何日も生活を共にする雪山では衝突も多いのだろう。別々に登山を続けるのもわからなくもない。

  1. 2016/10/06(木) 00:02:42|
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吉尾弘「垂直に挑む」

 高田馬場のブックオフで山の本を5冊買ったうちの1冊。

 著者の吉尾弘氏は一ノ倉沢滝沢の積雪期初登攀を皮切りに、北岳バットレス中央稜積雪期初登攀、剱岳チンネ正面壁積雪期初登攀と数々の積雪期初登攀を成し遂げ、1962年には冬季屏風岩ー前穂東壁右岩稜ーDフェース連続登攀を行っている。その後はヴェッターホルン北壁、ネパールのパビール遠征などを行ったと著者の解説欄にあった。調べてみると2000年3月に一ノ倉沢滝沢リッジで滑落死したそうだ。

 山の本というのは叙情的な要素と叙事的な要素で構成されると思う。叙情的な要素が多ければ串田孫一や大島亮吉のような文学的な作品となり、叙事的な要素が多ければ初登攀の記録やガイドブックのようになる。いずれも重要だが、私は現在地がどこでパーティーに誰がいるのか、といった状況がわからないとイマイチ叙情的な面に没入できない。

 その点、吉尾氏の文章は叙情的な要素と叙事的な要素のバランスがよくとれていて読みやすい。各ルートも概念図が描かれているので現在地もつかみやすい。その上で登り出しのトップ決めの不安や滑落したときの心情などが分かりやすく描かれている。

 他者への攻撃的な感情を包み隠さないのも魅力だ。剱岳チンネ正面壁にアタックする日のこと、同行する芳野氏が起きろと声をかける。

 いやに眠いので時計を見ると、まだ午後8時(9日)である。罪なことをするものだと、さすがに私もむっとして聞いてみた。

「出発は午前1時のはずなのに、まだ5時間もある。時計を見たのですか」

吉尾弘「垂直に挑む」(中公文庫,1980)P.74

 この後芳野氏から出発までの準備が遅いためこの時間に起きることを指摘され我慢できなくなっていたが、やはり同行する田中氏から肩を押えられ、気持ちを押し込める。

 登山は何日も一緒に行動するし、テントも一緒、飯も一緒なので、下界での同棲生活よりも他人との距離が近い。必然、考え方の衝突は起こりやすい。ましてや困難なルートであれば気持ちは常に高揚し、焦燥感に駆られているため、剥き出しの感情がぶつかることもあろう。そのため山ではリーダーを決めて最終的にはリーダーの言うことに従うという組織編成が多い。

 ただ、下界に降りてきてからその感情を隠さないと社会生活ではトゲのある言い方になってしまい、いい思い出だけを綴ってしまうのも感情だろう。そのジレンマは吉尾氏自身もわかっている。

 私はこの本のなかに、いっしょに登った仲間のことをいろいろ書いた。なかには気を悪くする人もあるかもしれないし、そのために摩擦のおこるかもしれないことも覚悟している。

 しかし、私の書いたことは登攀した当時の偽らざる気持ちだった。これを私一人の胸のなかにそっと収めておくのも一つの美徳かもしれないが、それでは自分の気持ちを偽ることになってしまう。折角この登攀記を人間の記録として書こうとする意味がなくなってもしまう。

吉尾弘「垂直に挑む」(中公文庫,1980)P.250-251 あとがき

 吉尾氏の朴訥な性格がわかる書き方で、登攀記としてもわかりやすいし、登攀者の抱いた感情もわかりやすいうまい語り手だと思う。トップクライマーも人間らしい葛藤を抱えているというのが伝わってきた。

  1. 2016/08/16(火) 00:06:56|
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豊野則夫編著「東北・上信越・日本アルプス 沢登り銘渓62選」

 豊野則夫編著「東北・上信越・日本アルプス 沢登り銘渓62選」を買った。

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↑東北・上信越・日本アルプス 沢登り銘渓62選の目次

 ブックオフを巡っていたら偶然発見した。奥付を見ると2016年7月21日初版第1刷発行とあってほぼ新品なのだが、なぜか古本として売られていた。ぱらっと中身を見て買う。沢登りのガイドブックはすぐ絶版になってしまうので、私は古本で見つけたらすぐ買うようにしている。

 オールカラーで写真も多く、1つの沢に4ページほどを費やしているため、沢のイメージがつかみやすい。もちろん遡行図もある。

 中級者向けを中心に、上級者向けの困難な沢を含む銘渓62本を、実査調査に基づく遡行情報と豊富なカラー写真で掲載した沢登り愛好家待望の心踊る一冊!

豊野則夫編著「東北・上信越・日本アルプス 沢登り銘渓62選」表紙

 とあるように、対象としている沢にはじめての人を連れて行くものはない。私が登ったことのある沢だと、葛根田川、米子沢、檜枝岐川下ノ沢、ナルミズ沢、湯檜曽川本谷、万太郎谷本谷、西ゼン、魚野川本流、尾白川黄蓮谷右俣、黒部川上ノ廊下といった感じである。

 奥多摩や丹沢ではなく、少し遠出したい、というときに参考になりそうな本である。昔のガイドだとアプローチのバスが廃止になっていることもあり、最近の本は交通機関が最新のものになっているもいい。絶版の関東周辺の沢の代替にちょうどいいと思う。

  1. 2016/07/28(木) 01:00:08|
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千葉高山岳部部報針葉樹第1号、第2号、第3号を読んだ

 千葉高山岳部部報針葉樹第1号、第2号、第3号を読んだ。

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↑千葉高山岳部部報針葉樹第1号、第2号、第3号

 昔、OBから顧問の先生に手渡されたものの、取り扱いに困った先生がOB会に返したいと考えていたそうだ。この間、旧顧問の先生に会いに行ったところ、OB会の役員会に出席する予定の私に託された。役員会のときに会長に目を通して見たいのでしばらく預からせてほしいとお願いし、承諾を得た。

 表紙に色が塗ってあるのが斬新である。ガリ版刷りの当時にカラーコピーなどないので1冊1冊筆で塗ったのだろう。また、クラブ名が固定されていないのがまた面白い。高校の名前すら千葉第一高校の時もある。

号数発行年月日クラブ名
第1号昭和24年10月14日千高山岳部
第2号昭和25年2月12日千高山岳クラブ
第3号昭和25年(奥付なし)千葉第一高校山岳クラブ

 この冊子を作るきっかけは第1号の編集後記に書かれている。

 さて、さヽやかな雑誌たりとも作ってこの懐かしい今夏の山の憶い出の数々を永久に残さう ー 登山のつらさ、岳友の友情、山嶺の美しさ等々 ー と決心し、計画を始めたのが九月、表面化したのが此の針葉樹である。

千高山岳部第1号,編集後記

 残念ながらなぜ「針葉樹」という題名にしたのかは触れられていない。一橋大学山岳部と同じ会報であるが、真似たのか偶然なのかはわからない。前にOB会の会長が言っていたのは、後者のようであった。

 山行内容は地蔵岳から広河原峠を越えて白根御池小屋を経て北岳、仙丈ケ岳、三峰神社から雲取山、勘七ノ沢、八ヶ岳本沢温泉から編笠山までの縦走などである。南アルプスの記事が多い。何ページかは印刷がかすれてほとんど判読つかないものもあった。また、具体的なルートが書かれていないものもあった。

 アプローチが今とは全くことなる。北岳に行くのに穴山駅で降りて御座石温泉まで歩いて行ったり、キュウハ沢まで秦野駅から歩いて行ったりするのを見ると隔世の感がある。キュウハ沢では登山口の山の家に泊まった時の表現が面白い。

 中津川を渡って、札掛山の家についたのが正七時、早速風呂に入る。おどろいた事には、この山の家は四世帯二十人の家族がゐるが、これが皆クリスチャンだそうで、夜これの集会によばれて賛美歌とバイブル、ヨハネ伝第十六章を読ませられた時は全くあやしきまでへんな心地がした。なかなか味のある山小屋の一日であった。この宿料七十円也に三十円足して大枚一枚ふん発してやった。

菅武太郎,キウハ沢遡行,千高山岳部第1号,P.19

 割に地名を詳細に書いてあった第3号の笛吹川紀行抄を読むと、これまた窪平行きのバスが三富まで延長していて楽だ、という表現が見つかる。また、釜の沢・信州沢の二俣に「鶏冠山鉱山事務所がありそこに泊ることにする」とあってあんなところに鉱山があって人が出入りしていたのかと驚く。

 山行記に限らず随筆も多い。じっくり読めば面白い記事があるのだろうが、かすれていて読めなかったり、旧字体で私が読めなかったりするので、読むのに疲れる。紙もボロボロで取り扱いもそっとである。70年近く経つ手書きの冊子が読めるのは貴重だが、これ以上長期に保存するとなると紙以外の手段を考えたほうがいいのだろう。

  1. 2016/04/16(土) 16:10:55|
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浦松佐美太郎「たった一人の山」

 浦松佐美太郎「たった一人の山」を読んだ。

 1929年ウエッターホルン西山稜を初登頂した山行記「山頂へ」が収録されている。表題作はウエッターホルンを登った夏の終わりにグレックシュタインの小屋に1人で行く話である。他にドロミテに登った「ドロミテの山旅」がある。

 藤木九三「雪・岩・アルプス」を読んだ時と同様、私はヨーロッパアルプスに行ったことがないので、ツェルマットとかグリンデルワルトとか言われてもいまいちイメージがわかない。本の中ほどからは「山と氷斧」「山靴」「雪」といった切り口で過去の山行を語っているので、その方が興味がわいた。

 そんな中から2つほど紹介する。

 冬の山登りには、華やかさが微塵もない。だから、これは私一人のことだが、どこか冬の山へ行こうと考えついてから、いよいよ実行に移すまでには、ずいぶんの努力がいる。そして、一切の準備が整って、いざ出発となっても、心は重いのである。しかし、よく考えてみると、程度の差こそあれ、私にとっては、夏の山登りもやはり同じである。…(中略)…山へ行こうと思いつくのは、自分にとっては、この上もなく愉しいことなのだが、さてその愉しさを実現するための、努力をする段になると、だんだんと心が重くなって来る。これは、山登りが一つの難しい仕事だということが、心に深く染み込んでいるせいであろう。

浦松佐美太郎「たった一人の山」(中公文庫,1977)P.153「冬の山々」

 私も山を計画しておきながら準備が面倒だったり、朝起きても行くのが面倒だったりすることがある。ひどい時は登り始めても帰りたいと思っていることがある。昔の1級の登山家は暇さえあれば山に登ってやる、みたいな前向きなイメージがあるので、私と同じようなことを考えているのは意外であった。

 自分の住む町から富士を望み得る機会を持つ人々は、ぜひ一度は登山すべきだと私は思っている。あの頂きの上に、自分も立ったのだと思うだけでも、今までとは全く違った心持で、眺め入るようになるであろう。

浦松佐美太郎「たった一人の山」(中公文庫,1977)P.205「富士山」
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家から見えた富士山

 遠くに富士を望むことは家からも、南アルプスや北アルプスなど山からも見たことがある。遠くの富士山を見るとき、「ああ、富士山が見えるなあ」くらいしか思っていなかったのだが、富士山以外にも踏んだことのある峰も多いと考えると、その思い出に浸るのもよいと思う。その感覚はなかった。

  1. 2016/03/25(金) 23:25:39|
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