山ノ中ニ有リblog

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夢をみる理由 - 時実利彦「人間であること」(4)

 以下のエントリの関連。

 いったい、パラ睡眠はなぜおこるのか。人間や動物で、パラ睡眠をおこさないようにすると(段無実験)、ひっきりなしにおころうとし、それを長くつづけていると、動物では、食欲や性欲が高まり、怒りやすくなる。人間でも神経質になって不安がったり、記憶や注意の集中が悪くなったり、食欲が高まるという。また、幻覚をおこしやすくなるといわれている。

 このような実験結果から、パラ睡眠は健康に生きるためには必要かくべからざるものとみなされているが、夢をみる理由については、意見がまちまちである。願望の達成、昼間の行為のリハーサル、危険防止のための周期的覚醒、オーソ睡眠中の神経細胞の乱れを矯正する過程、昼間体験したことを記銘する過程、昼間に受けとめた不用な情報を棄却する過程……。

時実利彦「人間であること」(岩波新書,1984)P.195-196

*パラ睡眠=REM睡眠、夢をみている時の睡眠、オーソ睡眠=non-REM睡眠、夢を見ていない時の睡眠

 私も夢を書き留めていて、なんでそんな夢をみるのか私自身判別がつかないのだが、直近の夢(ビルが倒れる夢)で見た中では「昼間の行為のリハーサル」だろうか。翌日行う打ち合わせを夢のなかで気にしていたので、そのことを考えていたら夢のなかでも打ち合わせしようと考えていたのかもしれない。しかし、ビルが風で倒れることは、私はまったく願望していないし、昼間体験したことでもない。

 夢をみることは実に不思議だし、面白いと思う。

  1. 2010/07/02(金) 00:06:31|
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子どもには時間感覚がない - 時実利彦「人間であること」(3)

 過酷な感覚遮断実験 - 時実利彦「人間であること」(1)脳への刺激で記憶が想起される - 時実利彦「人間であること」(2)の関連。

 これに対して、時間を表わすことばが正しく使えるパーセントを表2に示してあるが、三歳になっても、使い間違いが非常に多い。満六歳の子どもで、「さらいねん」「おととし」ということばが正しく使えるのは、わずか20%である。そして、このような時間を表わすことばが正しく使いこなせるには、十歳をまたねばならないという。

(中略)

 ところが、幼稚園で、前の日まできれいに咲いていたチューリップの花が次の日の朝散ってしまったので、先生は園児を集めて、「ほら、きのう咲いていたチューリップが、こんなに散ったでしょう」と話しかけても、園児は何の反応も示さない。そのはずで、園児にとっては、きのう咲いていたチューリップはきのうのチューリップ、きょう散っているチューリップはきょうのチューリップであって、きのうのチューリップがきょう散ったということが体得できないのである。

時実利彦「人間であること」(岩波新書,1984)P.155

 子どもに時間感覚がないというのは驚きである。私の記憶によれば小学校1年生のとき、アサガオを育てたときは、同じアサガオがふたばから成長していったという自覚があった。しかし、それ以前、私が所有していない植物が成長していることに気づいたかどうかは覚えていない。

 ある植物がきのうより1cm, 2cmと成長するのは直感的には常識である。植物に限らず、人間でも相手は前と同じものである、という前提で私たちは社会生活を行っている。きのう先生だった人は、今日も先生だし、あすも先生であろう。動物でも自分の子どもを昨日と今日で取り違えるということはあるまい。

 しかし過去や記憶を懐疑的に思考すると、バートランド・ラッセルの言う世界五分前仮説に到達する。そこには時間の流れというものはなく、過去も未来もなくただ現在だけが存在することになる。経験に基づくかどうか分からない、過去の記憶を持つ「私」が思考する世界である。

 子どもに時間感覚がない、というのは子どもはある意味で哲学的な思考に沿って忠実に行動している結果なのかもしれない。何も考えない人と深く考え抜いた人で結論が一致するというのは面白い。高度に発達した論理学は非論理と見分けがつかないのと似ている。

  1. 2010/06/30(水) 23:36:29|
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脳への刺激で記憶が想起される - 時実利彦「人間であること」(2)

 過酷な感覚遮断実験 - 時実利彦「人間であること」(1)の関連。夢カテゴリの関連。

 私はときどき夢を見て、それをblogに書き留めているが、夢のイメージとはつくづく不思議で面白いものだと思っている。私の無意識を反映しているのだろうが、その像に私自身なんの自覚もない。ただ一度思い出して記憶として定着すると、その後はかなりはっきりと思い出せる。ただ、その像は起きたあと何度か思い出し反芻するうちに創った部分もかなりあると思う。

 それでも私の考えてもいないことを、私が考えているというのは面白い二律背反だと思うのである。

 一方で、脳の部分部分にはその人の経験に基づくいろいろな視覚像が織り込まれているようだ。

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↑ある人の脳に電気刺激を与えると、いろいろな視覚像が想起される(時実利彦「人間であること」(岩波新書,1984)P.103)

 意識ある状態で脳を手術しているときに、側頭葉のいろいろな部位に電極をあてて刺激すると、その人が体験したことをまざまざと想起するのである。ある部位を刺激すると、かつて聞いたことのあるオーケストラが聞こえてき、刺激するたびに同じオーケストラがはじめから聞こえたという。図18に、側頭葉の電気刺激によって、いろいろな視覚像が現れることを示してある。

時実利彦「人間であること」(岩波新書,1984)P.102

 「記憶」なんてものは脳の中でシナプスが複雑に絡み合って収納されていると思っていたのだが、意外に簡単に収納されているのかもしれない。夢で見る像も記憶と同じように織り込まれているのだろうか。応用すれば脳の適当な部位に刺激を与えて新しい記憶を作ることもできるのだろうか。

  1. 2010/06/29(火) 00:02:54|
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過酷な感覚遮断実験 - 時実利彦「人間であること」(1)

 時実利彦「人間であること」を読んでいる。

 タイトルからすると哲学的あるいは倫理的な観点から「人間であること」を述べた本のように見えるが、筆者が脳生理学を専門とする教授だけあって中身はもっぱら脳生理学の話である。

 初版が1970年、読んでいるのが1984年第24刷と若干古いのが難点だが、人間のからだというハードウェアとこころというソフトウェアをつなぐ面白い分野の本である。

 その中で他の実験と比較すると、かなり危険に見える感覚遮断実験の絵があったので紹介する。

 まずは他の実験。

 幸村誠「プラネテス」で主人公ハチマキが空間喪失症と発覚する実験。

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↑視覚・聴覚を奪う感覚遮断。このあと照明が消える(幸村誠「プラネテス」vol. 1(講談社,2001), p. 199

 ある程度広い部屋で行われており、空間的な閉塞感はない。宇宙飛行士でなくとも眠ることができれば数時間はこなせそうだ。

 もう一つ他の実験。感覚遮断による幻覚 - 野口 薫ほか「新版 心理学入門」(1)でも紹介した実験。

100626kankaku-shingigaku.jpg

↑視覚・聴覚・触覚を奪う感覚遮断(野口 薫、糸魚川 直祐、伊藤 隆二、辻 敬一郎、青木 孝悦、萩原 滋「新版 心理学入門」(有斐閣新書,1996)P.42

 被験者は、図1.25(a)に示すような実験場面に入れられる。プラスチックの覆いが眼に入る光を拡散させ、やわらかい枕と空調機とファンからでる連続音が耳への刺激を単調にし、手袋や綿のカバーで手や指への刺激が絶たれる。このような孤立状態で数日を過ごすと、次のようなドラマチックな効果が生じる。

 部屋全体が波うって、流れ出す…床も壁もいたるところで波うっているーおそろしい光景だ。自分の眼を開けているのがむずかしい。視野は混沌としている…

W.ヘロン、1957
野口 薫、糸魚川 直祐、伊藤 隆二、辻 敬一郎、青木 孝悦、萩原 滋「新版 心理学入門」(有斐閣新書,1996)P.43

 これも1日以上となるとつらいが、やはり眠ることさえできれば12時間くらいまでなら耐えられそうだ。

 で、問題の「人間であること」の感覚遮断実験。

100626kankaku-ningen.jpg

↑視覚・聴覚・触覚を奪う感覚遮断(時実利彦「人間であること」(岩波新書,1984)P.71

 人間を対象とした孤独実験の状況を図13に示してある。被検者を裸にして、身体と同じ比重で体温と同じ温度の液体のなかにいれ、顔には呼吸や食事のためのマスクをかけ、暗黒の無響室のなかで、身体を動かさないように命じておく。このようなきびしい孤独条件では、数時間もすると、精神的、肉体的にパニックの状態になるという。

時実利彦「人間であること」(岩波新書,1984)P.71

 ろくに足もつかない、横になることもできない、いわば真っ暗な海の中で泳ぐな、と言われている状況では発狂するのは当然だと思う。発狂したら溺れそうだけど、この実験本当にやったのだろうか。第一、孤独実験なら感覚を遮断する必要はないと思うのだが。

 昔の人は偉大だと思う反面、恐ろしいことをやるなあと思う。

  1. 2010/06/28(月) 00:10:29|
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人は人を殺しやすい傾向がある - 宮城音弥「人間性の心理学」

 宮城音弥「人間性の心理学」を読んでいる。実は以前1回読んだことがあり、家にも1冊あるのだが、読んだことに気付かず買ってしまった。どうせ読んだことも忘れているくらいなのだから、とまた新しい気持ちで読んでいる。

 「偽善について」の項で感心した記述を見つけた。

 この点についてフロイトはフレーザーを引用する(『精神分析入門』)。

「深く根をおろしている人間の本能が法律で強化される必要があろうとは思われない。人間に、食べたり飲んだりするのを命ずる法律はないし、火のなかに手を入れるのを防ぐ法律もない。人間は本能にそむいて行動する場合にうける自然的な罰ーー法律的な罰でなくーーをおそれて本能的に、食べたり飲んだり、手を火から離したりする。自然みずからが禁止し罰するものは、法律で禁じたり罰したりする必要はない。

 だから、法律で禁じられている犯罪というのは、多くの人たちが、自然的な傾向によって犯しやすいものだということが認められるであろう。もし、この悪い傾向がなければ、犯罪はないであろうし、犯罪がなかったならば、それを禁ずる法の必要があろうか。」

宮城音弥「人間性の心理学」(岩波新書,1995)P.117-118

 これを読んである議論を思い出した。

 5年くらい前だろうか、いっとき「なぜ人を殺してはいけないのか」という議論がテレビなどで流行っていた。なぜそんな議論が流行っていたのかは思い出せない。

 明らかに万人が合意する答えのない問いであり、さまざまな人がさまざまな議論を展開していた。私自身はいまのところ人を殺す動機もないし、他人に道徳を教える立場にもないので深く考えることはなかった。

 少し話がそれたが、「人を殺してはいけない」点について社会的には合意が形成されている理由は、上の引用からひけば多くの人たちが、自然的な傾向によって犯しやすいものだからと言えるだろう。

 ということは多くの人たち、すなわち社会の中で生きている人たちは「人を殺しやすい」傾向があるのだろうか。直感的に納得しがたいが、新聞・テレビでは毎日のように殺人事件を報じている点、ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争状態」という言葉、国際紛争を解決する手段として戦争がなくならないこと、などを考えれば「人は人を殺しやすい」傾向があるのかもしれない。


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  1. 2010/06/15(火) 21:46:42|
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リスキー・シフト - 野口 薫ほか「新版 心理学入門」(3)

 伝言による物語の変容 - 野口 薫ほか「新版 心理学入門」(2)の続き。

 たとえば、何らかの案件への対応策として、失敗のおそれは少ないとしても成果も小さい地道な方法から、失敗の危険は高くとも成果も大きい大胆なものまでいくつかの方略が考えられる場合、集団討議に基づく決定は各成員の当初の意見を折衷した中庸なものに落ち着くことが多いのだろうか。この点については、むしろ集団の決定が個人の決定よりも危険で大胆な方向に移行する傾向が指摘されており、その現象は「リスキー・シフト」と名づけられている。

 個人よりも集団で決定を下すときの方が失敗に対する責任が分散されやすい。安全で保守的な意見よりも危険で大胆な意見の方が影響力を発揮しやすい。

野口 薫、糸魚川 直祐、伊藤 隆二、辻 敬一郎、青木 孝悦、萩原 滋「新版 心理学入門」(有斐閣新書,1996)P.201

 直感的には集団討議の結果は全員がそれなりに納得するものなので、最も平均的な意見が採用されやすい気がする。しかし実際には「危険で大胆な意見」が採用される。これは少し意外であったが、「責任が分散されやすい」という理由で納得した。

 「危険で大胆な意見」がよいことか悪いことかはその議題にもよるし、結果を見てみないと判断出来ないことだが、中庸的な意見を求めるために集団討議を行うのはあまり好ましくないということだ。

 集団討議がうまく行かない例として「自転車置き場の議論」がある。身近な事柄はそれを議論することが重要か否かであるに関わらず、議論が白熱するということのたとえである。役所の仕事が非効率的と言われるのもこの辺が原因かもしれない。

 合議制とは必ずしも有効な手段ではない。しかし合議によらずに関係者の合意を得るのは難しい。社会的ジレンマは解消が難しいと思う。


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伝言による物語の変容 - 野口 薫ほか「新版 心理学入門」(2)

 感覚遮断による幻覚 - 野口 薫ほか「新版 心理学入門」(1)の続き。

 また、F. C. バートレットは、イギリス人学生を対象にした実験で、北アメリカの地方に伝わる話を学生の一人に聞かせ、その内容を順に別の学生に語り継がせてみた。すると、イギリス人の習慣に合わない内容や容認しづらい個所が、脱落したり自分たちに合うように変わったりした。

野口 薫、糸魚川 直祐、伊藤 隆二、辻 敬一郎、青木 孝悦、萩原 滋「新版 心理学入門」(有斐閣新書,1996)P.73

 伝言ゲームの面白さは、伝言が人から人へと伝わるたびに変容していくことにある。伝言ゲームがなぜゲーム足りうるかというと、参加者全員に最後に当初の伝言が知らされ、変容した伝言との違いが明らかになるからである。

 しかし口伝によって何十年、何百年も語り継いでいるものはゲームにならない。当初の伝言がわからないからだ。例えば日本の昔話は今でこそ柳田国男の取りまとめた本や市販の絵本で知ることができるが、昔は口伝で伝えられていた。

 昔話というもの最初から、ほんの僅かな人で一しょに聴き、又其中でも一人か二人かが、それを後から生れてくる者に、話して聴かせることが出来たのであります。作りごとをする必要が少しもないと共に、知らずに間違えていても、それを直してくれる者はいませんでした。長い年月の間には、村により又家庭によって、少しずつ変わってくるのはあたりまえのことであります。(中略)そうしてその面白いところだけが特別に詳しく話されるようになって、他の残りの部分がおいおいに取れたり落ちたり壊れたりするのであります。

柳田国男「日本の昔話」(新潮文庫,1983)P.15 はしがき

 となると、昔話もそのうち変わっていくのだろうか。確かに私は「山へ柴刈りに行くおじいさん」も見たことがないし、「川へ洗濯へ行くおばあさん」も見たことがない。「柴刈り」の目的すら分からない。薪代わりか枝落としか。

 現代では昔話を文字で伝えられるが、時が立つにつれ現実と文字で伝えられる物語の世界は乖離が激しくなるだろう。そうすると物語は誰も理解できなくなり、口伝されることがないため、伝え手の経験に基づき物語が変容することはなくなる。文字によって聖書のように一字一句不変のものとして固定化されるのかもしれない。

 誰も理解できなくなるという点で、変容しなくなった昔話は、昔話として死を意味するのかもしれない。

 一方で、私が柳田国男「日本の昔話」で取り上げた「水蜘蛛」「御辛労の池」のような不気味で訳の分からない話はどうして今まで残っているのだろう。おそらく「池に近づくな」というような警告の意味もあろうが、それにしてももう少し単純な話が作れそうなものだ。一見、訳の分からない物語にはユングの言うところの集団的無意識が作用しているのかもしれない。


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感覚遮断による幻覚 - 野口 薫ほか「新版 心理学入門」(1)

 ウェーバーの法則とフェヒナーの法則の関係をジャネの法則に適用する(1)(2)で書いたウェーバーの法則とフェヒナーの法則は、大学のとき読んだ有斐閣新書の心理学入門で出てきて、「心理学に対数関数を使うなんて面白い」と思って覚えていた法則であった。

 特に心理学の講義を受けていたわけでもなく、なんとなく図書館で借りて読んだのだが、いつだったかブックオフで見つけ、再読しようと思って購入し読んでいる。でも何回も版を重ねているためか買った版にはウェーバーの法則とフェヒナーの法則は載っていなかった。

 それとは別に第一章「外界を知るはたらきー知覚」の項で、初めて目の見えた人の体験が書かれていて興味深かった。

 生後何年も目の見えなかった盲人が開眼手術を受けた場合、どのような視覚体験をもつのであろうか。眼帯をとったら、そこに母親の感激している顔が見えるという、ドラマチックな情景は、実際にはありえない夢物語にすぎない。

 M.v.ゼンデンの記録によると、開眼直後は、触覚によって熟知していた事物さえも、視覚によっては把握できない。わずかに明暗の印象が生じるに過ぎない。その後、色調が区別されても、形のない明暗と色の雑然とした混沌状態が体験されるばかりであるという。

 しかし、やがてある色調をもったものが、ほかから分離し、きわだって見えてくる。それがなんであるかは、わからないが、ほかのものとは違うことがわかるようになる。

 ついで、物の輪郭を探るようになる。輪郭をたどり、角の数を数えることによって、物の正しい把握ができるようになる。このような図形の部分をたどる過程を反復することによって、最終的には図形全体を即座に知覚することができるようになる。

野口 薫、糸魚川 直祐、伊藤 隆二、辻 敬一郎、青木 孝悦、萩原 滋「新版 心理学入門」(有斐閣新書,1996)P.47-48

 また、もともと目の見える人であっても感覚遮断実験によって幻覚が起こることを示している。

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↑視覚・聴覚・触覚を奪う感覚遮断(野口 薫、糸魚川 直祐、伊藤 隆二、辻 敬一郎、青木 孝悦、萩原 滋「新版 心理学入門」(有斐閣新書,1996)P.42

 部屋全体が波うって、流れ出す…床も壁もいたるところで波うっているーおそろしい光景だ。自分の眼を開けているのがむずかしい。視野は混沌としている…

W.ヘロン、1957

 さらに、形や色の変化が報告された。垂直、水平のふちが、凝視しないかぎり、曲がって見える。色は輝き、とくに明るくなる。また、はっきりした刺激がないのに、鮮明な視覚像が報告された。すなわち、いろいろな幻覚が生じた。たとえば、図1.25(b)のように、自分が二人いる、どっちが本当の自分か不安になる、と報告された。

野口 薫、糸魚川 直祐、伊藤 隆二、辻 敬一郎、青木 孝悦、萩原 滋「新版 心理学入門」(有斐閣新書,1996)P.43

 手塚治虫「火の鳥・復活編」冒頭で、レオナが生き返ったとき、人が石や土くれでできた無機質なものに見えると述べていたが、あながち嘘ではないのかもしれない。


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  1. 2010/05/26(水) 00:47:00|
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