山ノ中ニ有リblog

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ワイツゼッカー演説にみる世代間の罪の遺伝の考え方

 ちょっとした待ち時間に日曜日の日経新聞を読んだら面白い論説があった。私が論説を読むことはあまりないのだが、あんまり読まない新聞ということもあって読み方がわからずとりあえず表紙をめくって眼についた記事を読んでいた。

 日韓の歴史認識のズレに関連して、ドイツのワイツゼッカー西独大統領の演説を取り上げている。

「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」(永井清彦訳、以下同じ)

 1985年5月8日、ドイツの敗戦40周年にあたり、ワイツゼッカー西独大統領(当時)が連邦議会で演説した。そのなかの有名な一節である。

日本経済新聞 8月24日朝刊14版P.2 風見鶏 ワイツゼッカー演説の謎 特別編集委員 伊奈久喜

 この言葉は韓国が日本を非難する意味合いで引用するほどに有名な言葉だそうだ。現在それほどにリファーされる言葉なのに、当時の日経のドイツ支局の記者たちはこの言葉を取り上げていない。その理由は、この演説の3日前に米大統領とある墓地を訪れたことが挙げられるという。その墓地にはナチスの幹部も葬られているため、単なる第二次世界大戦の犠牲者への鎮魂というだけでなく、ナチス礼賛にもあたるのではないかという疑義があったからというものだ。また、演説には以下の内容を含むという。

「民族全体に罪がある、もしくは無罪である、というようなことはありません。罪といい無罪といい、集団的ではなく個人的なものであります」

「今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません」

日本経済新聞 8月24日朝刊14版P.2 風見鶏 ワイツゼッカー演説の謎 特別編集委員 伊奈久喜

 現在の日本の政治家がこのようなことを述べたらたたかれるだろうと、著者は述べている。パククネ大統領は「加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わることがない」と述べていたから、おそらく韓国からの非難は必至だろう。

 一方で、当たり前と言えば当たり前の気がする。現在生きている国民が犯していない罪を償うというのは罪と罰の関係を逸脱しているように思う。連想するのはキリスト教のいう原罪である。イエスは何の罪も犯していないが、罪深い人間たちの贖罪を肩代わりするために父なる神が現世に遣わした。クリスチャンはそのイエスに感謝し、隣人愛を実行するというのがキリスト教の教義の一つである。日本国民全員がクリスチャンと同様な論理を実行するならば、三浦綾子「氷点」における陽子のような発想をするならば、これは成立するかもしれない。しかし、その考えが普遍的であるというのは16世紀の宣教師時代の話であり、異なる宗教を尊重するのが現代の国に求められている態度に思う。

 記事は以下の言葉で締めくくっている。

 ワイツゼッカー演説は半ば「神話」になった。神話は史実とは違う。

日本経済新聞 8月24日朝刊14版P.2 風見鶏 ワイツゼッカー演説の謎 特別編集委員 伊奈久喜

 実際にワイツゼッカーが述べた言葉なのだろうが、取り上げられ方が当時と現在で異なるという希有な例であると思う。

  1. 2014/08/26(火) 00:00:29|
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脳の部位と記憶の対応 - 別冊日経サイエンス「時間とは何か?」

 時間は存在しない - 別冊日経サイエンス「時間とは何か?」の関連。

 A. R. ダマジオ「心の時間」という項目で脳の部位と残る記憶の関係が示されていた。

全脳基底部
この領域が傷つくと、多少の出来事を覚えることはできても、それらがいつ起こったかを思い出せなくなる。このことから、全脳基底部は昔の出来事が起こった時期を確定するのに関与すると考えられている。
側頭葉
海馬を取り囲む側頭葉部分が傷つくと、逆行性健忘になる。逆行性健忘の患者は古い記憶を呼び起こせなくなる。とくに、特別なときに特別な場所で起こった特殊な出来事に関連する記憶の回復が難しい。
海馬
側頭葉の内側表面に接している海馬が傷つくと、新しい記憶をつくることができない前行性健忘になる。
A. R. ダマジオ.心の時間.別冊日経サイエンス「時間とは何か?」2011. P.136

 脳の部位が時期や逆行性、前行性といった記憶の要素と結び付けられているのは不思議な感じである。人間を一種の機械と考えれば、部分部分で担う役割が異なるのは自然であるが、記憶という実態のないものとリンクしているのはやはり不思議である。このような研究を進めれば、いずれは心の在り処もわかってしまうのではないかと思うと恐ろしくなる。

 それぞれの部位を見ると、小説でも登場する特徴がある。「博士の愛した数式」であれば海馬の損傷、「酔歩する人」であれば前脳基底部の損傷ではないかと推定できる。アニメ「シュタインズ・ゲート」では海馬に情報を直接作用させることになっていたが、上の説明を読むと少々無理があるかなと思う。


時間とは何か? (別冊日経サイエンス 180)時間とは何か? (別冊日経サイエンス 180)
(2011/08/09)
吉永 良正

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  1. 2012/10/02(火) 23:33:23|
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天然の無常 - 山折哲雄「宗教の力―日本人の心はどこへ行くのか」

 山折哲雄「宗教の力―日本人の心はどこへ行くのか」を読んでいる。

 そこに寺田寅彦が「天然の無常」という感覚を示していたことが書かれている。

 それは昭和十年に書かれた「日本人の自然観」という文章で、そこに地震という現象に関してきわめて重要なことが記されていたのです。

(中略)

 日本では地震がよく起こるし、台風が発生するし、洪水に襲われる。(中略)自然の猛威に対して反抗することを諦め、むしろ従順に首をたれ、自然を師として学び、そのことを通して生きる知恵を蓄えるようになったというのです。

(中略)

 日本の自然は非常に不安定であり、その自然がいっぺん暴れだすと人間は為すところを知らない。人間の力なんて微々たるもので、その自然の暴威の前にはどうすることもできない。そういうところから「天然の無常」という感覚が生まれたのだ、と。

(中略)

 三番目に、そういう日本人はこうしてただ自然を見ていたのではなく、自然の中に神の声を聞き、自然の中に紙が宿っていると感じてきたのだと寺田は書いています。(中略)そういう繊細で鋭敏な感覚を持つ日本人の世界に、仏教が大陸から入ってきました。仏教はいろいろのな思想をもたらし、その仏教の思想が日本人に大きな影響を与えてきました。中でも日本人の心の底まで深い影響を与えたのが「無常観」だったのではないか、と寺田寅彦は考えています。

山折 哲雄「宗教の力―日本人の心はどこへ行くのか」(PHP新書,1999)P.30-32

 以前にも私は山折哲雄氏の著作を読んで、近年の日本人の無常観に対する変化を書いた。

 しかし、現代の日本においては自然は受け入れるものから征服するものへと変化している気がする。

 うまい例が見つからないが、水害、震災等の天災において、行政の管理が厳しくなっているように感じる。自然は征服すべき相手であり、征服できない場合に誰かの責任になるからだろう。そのとき責任を負うのは河川などを管理する行政であり、行政が管理責任が問われるからであろう。

天災に対する日本人の姿勢と行政責任

 それも東日本大震災においては、釜石の世界最大の防波堤が津波によって壊されたり、宮古では津波が史上最大の遡上高を記録したりと、自然の圧倒的な力を見せつけられた。いましばらくは日本人も自然の猛威を忘れず、頭を垂れて過ぎ去るのを待つことを覚えるだろうが、あと10年20年したらどうだろうか。

 「天災は忘れた頃にやってくる」とは寺田寅彦はまったくうまい文句を考えたものだ。


宗教の力―日本人の心はどこへ行くのか (PHP新書)宗教の力―日本人の心はどこへ行くのか (PHP新書)
(1999/02)
山折 哲雄

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 120929追記:2年前に同じ本を読んでいた。全然覚えていないということか。ちょっと恥ずかしい。

 参考:宗教は複数信じてもよいか - 山折哲雄「宗教の力―日本人の心はどこへ行くのか」

  1. 2012/07/13(金) 00:33:24|
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災害に対する良寛の姿勢

 本日の読売新聞の書評欄で良寛の歌を紹介していた。

 災害にあう時節には、災害にあうがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよろしく候、是災難をのがるる妙法にて候

2011年9月10日付読売新聞朝刊13版

 まさに老荘思想の教えと一致しているのだが、思い切った思想だと思う。

 東洋人たるものかくあるべしと思うが、これほど徹底した姿勢にはなれないと思う。

参考:

  1. 2011/09/11(日) 16:29:53|
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老子で印象に残った箇所 - 小川環樹訳注「老子」

 小川環樹訳注「老子」を読み終えた。印象に残った章を以下に挙げる。

 かえる者は、道の動なり。弱き者は、道の用なり。天下の万物は有より生ず。有は無より生ず。

小川環樹訳注「老子」第40章(中公文庫,1989)P.83

 大をせいと曰い、逝を遠と曰い、遠をはんと曰う第25章P.52)のように老子は言葉を連ねていく表現があるが、ここは有は無より生ずの言葉が印象に残った。何もないところから何かが生じたのだろうか。

 す無きを為し、事とする無きを事とし、味わい無きを味わう。小なるを大とし少なきを多しとし、うらみに報ゆるに徳をもつてす。かたきをの易きに図り、大なるを其の細に為す。…(後略)

小川環樹訳注「老子」第63章(中公文庫,1989)P.118

 老子らしい不干渉主義を示した文章。

 (前略)…てんもうかいかいたり、にして而も失わず。

小川環樹訳注「老子」第73章(中公文庫,1989)P.132

 「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉は知っていたが、老子が出典とは知らなかった。

  1. 2011/01/25(火) 21:22:43|
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無為自然の思想 - 小川環樹訳注「老子」

 道のきは、常の道に非ず。名の名づく可きは、常の名に非ず。…

小川環樹訳注「老子」第一章(中公文庫,1989)P.5

 上の第一章から始まる老子は無の思想を説いた老荘思想の祖として名高い。

 無為、すなわち何もしないことを最上とする思想は第二章によく現れている。

 天下、皆、美の美ることを知る、これ、悪なるのみ。皆、善の善ることを知る、これ、不善なるのみまこと有無うむあいしょうじ、難易なんいあいし、長短相あらわし、こう相傾け、音声相和し、前後相したがう。ここもつて聖人は、無為むいの事にり、不言の教えを行なう。万物はつかわれてしかも辞せず、生じて有せず、しかたのまず、功成ってしからず。ただ居らず、ここを以て去らしめられず。

小川環樹訳注「老子」第二章(中公文庫,1989)P.7

 美を美として知ってしまうことがみにくさの概念を生む、という点は旧約聖書のアダムと知恵の実の話を思い出す。

 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。

旧約聖書 創世記 2章17節

 私が好きなのは上篇第8章である。

 じょうぜんは水のごとし。水はく万物を利してしかも争わず。しゅうじん所にる。ゆえに道にちかし。るには地を善しとし、心にはふかきを善しとし、ともにするにはじんなるを善しとし、まつりごとには治まれるを善しとし、事にはあるを善しとし、動くにはときなるを善しとす。ただ、争わず、故にとが無し。

小川環樹訳注「老子」第八章(中公文庫,1989)P.19

 何もしない、それが最善であることを体現しているのはまさに「水」である。水に意思があるわけではないが、高いところから低いところへ流れる。そういった水の特徴は無の思想と一致すると思うし、人間の姿勢としても参考になる。

  1. 2011/01/11(火) 00:14:40|
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宗教は複数信じてもよいか - 山折哲雄「宗教の力―日本人の心はどこへ行くのか」

 山折哲雄「宗教の力―日本人の心はどこへ行くのか」を読んでいる。

 この本の中で目からウロコが落ちる文章があった。

 第二が、日本の伝統的な宗教、あるいは宗教心というのはそのような二者択一によるのではなく、「あれも、これも」という対し方だったということです。仏と神を同時に信仰してきたのが伝統的な日本人であり、正月には初詣に神社にお参りし、人が亡くなって葬式をする時にはお寺でやる。家にいくと神棚があり、仏壇が飾ってある。そもそも「宗教」とか「信仰」という言葉は日本にはなかったのであり、明治以前の日本人には意識もされなかったことでした。我々はそういう生き方を神信心、仏信心で済ましてきたのです。

山折哲雄「宗教の力―日本人の心はどこへ行くのか」(PHP新書,2000)P.26

 よく日本人は尋ねられると無宗教あるいは無神論者と答えるという。その理由の一つに、上のような正月は神社に初詣、結婚式は教会で、葬式は寺でという一見、統一性のない行動が一般的であるということがある。著者は上の引用の前で、キリスト教の排他的な考え方に基づき、宗教とはひとつの宗教を選び取らなければならないから無宗教あるいは無神論者と答えていると看破している。

 しかし、だからといって「宗教を持たない」というわけではなく、「神も仏も信じている」という考えがあってもおかしくない。つまり複数の宗教を信じてもおかしくないのではないか。上の例で言えば日本人は「神道であり、キリスト教徒であり、仏教徒である」

 山本七平/イザヤ・ベンダサン「日本人とユダヤ人」にも「日本人は無宗教だと言うが、そんなことはない。日本人は『日本教』の信徒だ」という文章があったと思う。

 考えてみれば聖徳太子が百済から仏教を輸入したのも、「これからはご先祖さまを崇めるのをやめて仏様を拝むことにします」というわけではないだろう。たぶん、国を災難から守ってもらうために、ご先祖さまに加えて仏様にもお願いするということではないだろうか。

 日本人は自動車をはじめとして外国の技術を真似するのがうまいと言われるが、宗教に関しても貪欲に他の宗教を受け入れて自分たちの宗教の一部に加えてしまうという器用な性質があるようだ。結果としてマリア観音だとか遠藤周作的なキリスト教観を生み出し、本流からは異端視されてしまうのかもしれないが。


宗教の力―日本人の心はどこへ行くのか (PHP新書)宗教の力―日本人の心はどこへ行くのか (PHP新書)
(1999/02)
山折 哲雄

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  1. 2010/12/01(水) 00:28:45|
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意思があるから時間がある? - 橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」(2)

 ミクロの世界に「時間」という概念はないかもしれない - 橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」(1)のつづき。

 読み終えた。

 第1章から第5章まで、ミンコフスキー空間の解説、光が波と粒子の二重性を持つこと、反粒子は時間を逆行すること、エントロピーの導入による熱力学的時間の話を導入として述べている。

 そして第6章、第7章で筆者の展開するロジックは以下のようなものだ。

 まずエントロピーが減少していく逆行世界を仮定する。

 逆行世界では、エントロピー減少の法則が成立するとするのである。つまり、無秩序状態は放っておくと、いつとは断言できないが、あるとき秩序を形成し始めるのである。

橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」(集英社新書,2007)P.115

 しかし、筆者はそのような世界では生命は生まれないとする。

 エントロピーが減少する方向では、秩序がひとりでに生じてくるから、そこに秩序を持続させる「意思」が生まれる進化論的圧力は働かない。すなわち、その方向に向かう「意思」「自由意志」、あるいは「意識」といったものが生じる必然性は何もない。

橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」(集英社新書,2007)P.132

 そして生命が秩序をに価値を見出す(P.117)点に言及し、その理由を以下のように述べる。

 それはわれわれが生命だからである。生命こそは秩序そのものであり、秩序なくしては存在しえないものなのだから。

橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」(集英社新書,2007)P.117

 そして生命の進化の過程と時間が生まれた理由を以下のように推察している。

 原初の生命は、結晶や竜巻と同じように、物質的な「秩序維持機構」によって誕生したものと思われる。しかし、秩序維持が上手な生命は、自然選択という進化の圧力によって生き残る可能性が高まるから、そこに「意思」が生まれるであろう。自動的に秩序を維持するよりも、「意識的に」秩序を維持する方が、はるかに効率的だからである。

 「意思」をもった生命は、自分の秩序を壊そうとする外部の圧力を、どうしようもない変更不可能な過去として受け止める。しかし、その「意思」は外圧に逆らって秩序を維持する自由をもっている。すなわち、この自由こそが未来そのものである。

橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」(集英社新書,2007)P.132-133、強調は原文ママ

 要は、この世界はほっとくとエントロピーが増大していくけど、なんか秩序を保ったほうがいい気がするから、意思が生まれたんだよ、意思を持つものが生命であり、生命が選択可能な未来を持つから時間という概念があるんだよ、という話らしい。

 残念ながらこの本のキモであると思われる第6章、第7章は、私には神の存在証明と大差ないように感じられる。つまり、なんか秩序を保ったほうがいい気がするの部分がいったい誰の意思なのか。筆者にとって都合がいいのか、あるいは現にこの世界の秩序が保たれているのはまさに神のご加護なのか。

 時間論を語るのに生命を持ち出す必然性はないと思う。この地球に生命が生まれる前にも時間は流れていたようだし、この地球上のすべての生命が絶滅しても時間は過ぎ去る気がする。しいてあげるなら認識論的に「時間がある」と感じる生命がいないと時間は存在しえないという論理くらいだろうか。


時間はどこで生まれるのか (集英社新書)時間はどこで生まれるのか (集英社新書)
(2006/12/14)
橋元 淳一郎

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  1. 2010/11/09(火) 00:21:06|
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ミクロの世界に「時間」という概念はないかもしれない - 橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」(1)

 中島義道「時間を哲学する」に続けて時間論の本を読み始めた。中島義道氏は哲学者なのに対して橋元淳一郎氏は物理学が専門。私には後者のほうが分かりやすい。

 この本の第一章「なぜ今、時間論なのか」で、著者は色や温度の例をあげ、ミクロとマクロのものの見え方の違いを示す。

 「色」とは限られた電磁波の波長の範囲で人間が感じられる波長のことを示しており、それが赤や青に見えるのは人間の感覚による。つまり、赤い花から赤い物質が放出されているというわけではない。

 「温度」もまた人間の「暑い」「寒い」という感覚を示すものだが、ミクロに見れば分子の運動エネルギーをさしており、分子一つ一つには温度という概念はない。

 これらから類推される論として「時間」もまた、ミクロとマクロで概念が異なることを示唆している。

「ミクロの世界に時間というものが仮にあるとしても、マクロの世界における時間と、ミクロの世界における時間は、同一のものではない。また、マクロの世界においても、物理学的時間と人間(生命)が感じる時間は、同一のものではない」

橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」(集英社新書,2007)P.18

 私は時間に対してマクロ的な見方しかしたことがなかった。つまり、原子や分子にも人間と同じ時間が流れており、例えば鼻息に乗った窒素分子が1秒後に20cm進むだろう、と考えていた。一方で分子一つ一つに温度という概念はないだろうとも思っていた。しかし、この言葉を聞いてミクロには時間という概念がないかもしれないと素直に信じられた。

 なかなか面白そうな本である。


時間はどこで生まれるのか (集英社新書)時間はどこで生まれるのか (集英社新書)
(2006/12/14)
橋元 淳一郎

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  1. 2010/11/01(月) 00:09:47|
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過去は<今ここ>に立ち現れている - 中島義道「時間を哲学する」

 中島義道「時間を哲学する」(講談社現代新書,2000)を読んでいる。「孤独について―生きるのが困難な人々へ」(1)(2)中島義道「不幸論」(1)(2)と同じ作者。

 たぶん、論旨は以下の文章に現れていると思う。

 聡明な読者ならお気づきのように、大森の過去論の原型はむしろ「夢」であり、現実の過去をかぎりなく夢に近づけて解釈してゆくものです。夢とは「みた」という過去形でしか意味をもちません。その場合、夜中に「夢をみる」という原体験をして、目が醒めてからその体験を「思い出す」と考えがちですが、大森はこの図式に揺さぶりをかける。いや、よく考えてみるとわれわれは朝方に「夢をみた」というかたちではじめて夢体験をするのではないか。ただ、はじめからそれに「過ぎ去った」感じが伴っているだけなのだ。そこから、われわれは夜中に「夢をみている」という原体験を導入するが、そんなものはでっちあげ(誤った、不必要な推論の結果)である!

中島義道「時間を哲学する」(講談社現代新書,2000)P.143

 つまり、過去とは想起したできごととしてしか感じることができず、世界五分前仮説のように過去は事実としては存在しないということのようだ。そのかわり、過去は想起しているいまここに現出しているという論らしい。

 結論からいうと、言いたいことがよく分からない。思想史に現れるさまざまな哲学者の言葉を散りばめながら説明しているのだが,その分寄り道が多いのか、論説文としての構成・展開が分からない。説明がくどいというか、思いついた順に書いたというか、何というか。オッカムの剃刀でバッサリ切り落としたら1/5くらいの厚さになるんじゃないかと思う。


「時間」を哲学する (講談社現代新書)「時間」を哲学する (講談社現代新書)
(1996/03/19)
中島 義道

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  1. 2010/10/28(木) 00:01:58|
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